望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

忘れることの恩恵

 東日本大震災から8年目を迎えた2019年3月11日。「あの日を忘れない」をテーマにした特番や特集がテレビや新聞に現れたが、翌日にはほとんど消えた。8月15日などと同じように回顧ネタになったことは、非日常であった大震災の体験や記憶が、日常の中で薄まったとも風化しつつあるとも言える。

 特別な体験や記憶を「いつまでも忘れない」ことが正しく、「いつまでも」忘れずにいるべきだと考える人もいようが、人は非日常の中で生き続けることはできない。日常を回復し、非日常の悲惨な記憶が薄れていくことで人は救われる面もある。忘れることの恩恵だ。

 東日本大震災のような大きな出来事では人は「共通」の体験や記憶を持つと錯覚しやすい。当然ながら体験や記憶は人により異なり、例えば、テレビ画面で津波の映像を見た人と、津波に襲われた人の体験や記憶は同質のものではない。しかし、大震災を同じように体験したとの先入観があると、体験や記憶は皆同じだと誤解する。

 「忘れない」の意味が当時のテレビ映像を思い出すことだったなら気軽に言うこともできようが、目の前で津波に街が襲われ、住宅が流され、多くの人が傷ついたことを見て、自身はやっと助かった体験を有する被災地の人に向かって、他人が軽々に言える言葉ではなかろう。

 東日本大震災は巨大災害であり、東北の太平洋側のみならず日本列島の多くの場所で人はそれぞれに大震災を体験した。それらの体験や記憶を集めたとしても、標準的な体験や記憶を抽出することはできない。存在するのは個別の体験や記憶であり、データ化可能なら記録として伝えていくべきものだ。

 過酷な記憶でも日常の中で次第に風化するのは自然なことであり、記憶が薄らぐことが人の再起を助ける。切り傷がやがてカサブタに覆われるように「忘れる」ことによっても人は「心の傷」を癒すのだろう。テレビ特番などが「忘れない」と強調するのは簡単だが、「忘れない」の意味は東京などのマスメディアと被災者とでは同じではない。

 感情や情緒を伝えるためには、受け手の感情や情緒を揺さぶることが必要になる。体験を共有しない人を対象にした時には、感情や情緒を揺さぶる演出が駆使される。そうした演出が、伝えるということを歪めるのは日本でも世界でも珍しくない。