望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

蝶の羽ばたき

 「ブラジルでの小さな蝶の羽ばたきは、遠く離れた米テキサス州での竜巻につながる」との言葉で知られるバタフライ効果。この言葉が事実ならば、ブラジルで蝶を絶滅させれば米テキサス州において竜巻の発生はなくなるか少なくなる。でも、ブラジルに生育する蝶の数は膨大だろうし、蝶の1個体につき竜巻1個が対応しているとすれば、米テキサス州では膨大な数の竜巻が発生していなければならないから、この言葉は事実と反する。

 南半球にあるブラジルと北半球にある米テキサス州を結びつけたところに、この言葉の意外性がある。そんな遠く離れた土地の気象に関係性があり、しかも小さな蝶の動きが影響していると聞かされれば誰もが「オヤ?」と興味を持つ。同時に「そんなことはないだろう」との疑問を持つ人も多いだろうから、講演のタイトルとしては秀逸か。

 例えば、「日比谷公園での小さな蝶の羽ばたきが立川市での突風の発生につながる」との言葉を事実だと受け止める人は少ないだろう。蝶の羽ばたきで周辺の空気が動くとしても、その動きは広がるとともに小さくなる。空気中を蝶の羽ばたきが起こした波が伝わるとしても、立川市に到達する遥か以前に吸収されてしまう。ブラジルと米テキサス州を結びつけたところに、この言葉の妙味がある。

 さらに、蝶を持ち出したのも巧妙だ。「ブラジルで団扇や扇風機の起こした風は、米テキサス州での竜巻につながる」との言葉をまじめに受け止める人はいるまい。団扇や扇風機の起こす風は蝶の羽ばたきよりも強いが、数メートル離れれば団扇や扇風機の風は弱まり、とてもブラジルから米テキサス州まで届きそうにないことは容易に理解できよう。小さな存在である蝶を持ち出したところに、ある種の神秘性が漂う。

 だが、この言葉は、そのような現象が事実としては発生するということではなく、複雑な自然現象などを予測する複雑な累乗計算などを行う時には、初期条件の数値の微小な数値の違いが計算結果の大きな違いをもたらし、長期予測では大きなずれに発展することを指摘したものだ。複雑な気象予測の計算において、蝶の羽ばたきによる風力という微小で無視できる数値の違いで、結果が違ってくることを示す。

 蝶の羽ばたきが、遠い土地での竜巻につながるという話は、地球環境が世界で密につながっており、一体のものだとの主張にも利用される。世界のどこからのCO2排出でも地球温暖化を促進するし、地球のどこかで捨てられたビニール袋やペットボトルなどが海に流れ出て世界の海洋汚染を促進するといった具合に、地球規模で環境を考えなければならないなどとされる。

 地球環境は一体のものであるが、国家によって分割されているのが現実だ。国家には多数の変動要素があって、揺れ動く利害を優先して動くので、国家の行動を予測する計算モデルは存在しない。バタフライ効果はカオス理論の開拓に貢献したが、蝶の羽ばたきより指導者や政治家らの決断は大きな影響を地球環境に及ぼす。指導者や政治家らの内心を数値化する計算モデルの誕生は不可能に見え、気象予測より人間の心の中の予測のほうが遥かに難しそうだ。