望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

倫理観と科学

 集中豪雨によって大きな被害が出たとのニュースは、日本のみならず世界各地ですっかり珍しいものではなくなった。世界で集中豪雨が増えたと理解すべきだろうが、気候変動という問題意識がマスメディアに広がり、集中豪雨など「異常気象」に関連しそうな気象現象を選んで積極的に流すので、ニュース量が増えたのかもしれない。

 世界で集中豪雨が増えた場合、世界の年間降水量は①増える、②変わらない、③減るーに分かれる。集中豪雨は降水量の増加をもたらすが、集中豪雨を除いた期間の降水量が平年並みか多い場合は①、集中豪雨を除いた期間の降水量が減って集中豪雨で増えた分を相殺するなら②、集中豪雨を除いた期間の降水量の減少量が集中豪雨で増えた分より多ければ③になる。

 世界の降水量は気象庁サイトによると、2020年の世界の陸域の降水量の基準値(1991〜2020年の30年平均値)からの偏差は+20mmで「北半球は+16mm、南半球は+31mm」で、世界の陸域の年降水量は1901年の統計開始以降、周期的な変動を繰り返しているという。

 30年平均値を基準に気候変動を言い立てるのは、百年に満たない時間を生きる大半の人間の生活感覚に即したものだろうが、周期的な変動を気候変動として「異常だ」「危機だ」と騒ぐのは解釈の誤りだ。さらに例えば、数百年に一度という気象現象は地球史においては頻繁に起きる現象だろうが、人間にとっては異常な現象になろう。だが、それは地球史では異常でもなく危機でもないだろう。

 気候変動の危機を共通認識とすることが既定事項となりつつあるのは、欧州諸国がCO2排出削減を世界的に「強制」し、経済構造を変えて主導権を握るという戦略が成功したためだ。科学という「印籠」を振りかざされると、人々もマスメディアも批判能力が萎縮することはCOVID-19のパンデミック以降、日本では珍しくなくなった。

 気候変動の危機を主張する人々の言動には、科学を言い立てながら妙に倫理的な装いがつきまとっている。科学の主張に倫理観などの支えは必要ないのだが、「環境保護は正義だ」との前提があるようで、気候変動に対する客観的な検証をも、正義や倫理に反する行動であるかのように仕立てたりする。

 気候変動に関する議論から倫理観や正義感などを排除し、気象や将来予測に関する科学にはまだ限界があることを認識して、主観を廃した議論を積み重ねることが、気候変動のより正確な脅威を見いだすには必要だ。だが、気候変動の議論はもはや世界で、科学の分野から政治や経済の分野に重点が移ってしまった。