望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

春を祝う

 東京で桜が満開になり、福島で開花するなど桜の開花全線は順調に北上している。例年ならゴールデンウイークの頃は弘前辺りで満開となるようだ。

 桜の開花への強い関心は、冬から春への季節の移行を皆で確認し、喜ぶという意味があるようだ。花見をする日本人はほとんど桜を見ていないという指摘は、花見を見に訪れた外国人からよく聞く。花を見るなら昼間の太陽の下で、心静かに見るべきだろう。花見は花を愛でているのではなく、屋外で夜も過ごすことができる気候になったという春の訪れを祝っているのだ。

 四季がある日本で、夏の訪れ、秋の訪れ、冬の訪れには、春の訪れを祝う花見のような特別な行事の共有はない。梅雨は夏の前触れとして捉えられているが、皆で祝うということはない。秋の紅葉は秋の盛りであって、秋の訪れを示すものではない。秋から冬へといつの間にか季節は移り、北国なら降雪で冬本番を感じるのだろうが、冬の季節の到来を祝う行事はあまりないようだ。

 新年になり、寒さが厳しい中で2月中から天気予報では花粉飛散情報を始める。花粉症の人にとっては辛い時期だろうが,天気予報で欠かさず伝える花粉飛散情報は春の前触れを示すものでもある。そして、しばらくすると、桜の開花予想が出るようになり(何度も修正予想が出る)、日本各地の開花情報が伝えられる。静岡にも春が来た、高知にも春が来た、宮崎にも春が来た、東京にも春が来たというように桜の開花情報が連日伝えられる。

 「同期の桜」という歌があり、「咲いた花なら散るのが定め」と歌詞にある。日本人が桜に惹かれるのは、散り際の見事さに共感するからだという解釈が行われているが、おそらく、それはこじつけだろう。散り際の見事さなら椿のほうが上だが、椿に桜ほどの人気はない。首を落とされることを想像するので武士は椿を嫌ったという説があるが、日本人の大半が武士であったわけではない。桜と散り際を結びつけたのは、死をいとわない雰囲気に日本人を誘導したい意図があったのかもしれない。

 桜は一斉に咲く。桜並木を歩くと、桜の花に酔うような気になる。冬の寒さに耐えていた身体が次第に解きほぐされ、身体も気持ちも自然の中に溶け込んでいくようだ。春の訪れを祝うのは農耕の民とそのDNAを受け継ぐ人々だけではない。生き物としての人間が春の訪れを喜んでいるのだろう。桜の咲く頃には日本では新年度が始まる。始まりは春…。日本人の季節感にも心情にも合うものだが、温暖化で季節も季節感も変わってしまうのだろうか。

 日本では桜の開花に強い関心が集まり、そして開花宣言が出され、あちこちで花見が始まり、マスコミにも花見の様子が取り上げられる。例年の年中行事ではあるが、桜は春を伝える象徴的な存在だ。米ワシントンの桜の開花も毎年伝えられるので、そのうち世界各地の桜の開花情報も報じられるようになるかもしれない。グルーバル化する世界の各地の春の訪れの知らせとして。