望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

記憶の地VS約束の地

 1274年10月19日に3万の元・高麗連合軍が九州に上陸、日本軍1万を圧倒したが、その夜、軍船に引き上げたところで大風に遭い、壊滅的打撃を受けた。1281年に14万の元・高麗等の連合軍が再度、九州を襲ったが、上陸の前夜にまたも大風に遭い、壊滅的被害を受け逃げ帰った。以下は「もし、大風が吹かなかったなら」という仮定でのお話です。

 “神風”が吹かず、九州を占領した元軍と鎌倉幕府軍の戦いはこう着状態となった。元軍が占領した九州には朝鮮半島から続々と人々が移って来た。元の滅亡とともに九州を日本が取り戻し、九州はその後、日本の一部としての歴史を刻んで来たが、九州の人口の8割を朝鮮半島からの移住者が占めるまでになっていた。


 そして20世紀。日本の敗戦とともに、九州に住む朝鮮族が独立を求めて運動を始めた。その中心となったのはKLA(コリア革命軍)。アメリカは最初、KLAをテロ組織として敵視し、日本政府が力づくで抑え込もうとするのを容認していた。しかし、朝鮮戦争が始まり、KLAが市民軍として韓米側で参戦すると同時にアメリカは態度を百八十度変え、自治運動組織としてKLAを認定、援助さえ始めるようになった。


 朝鮮戦争休戦後、KLAは九州を日本から独立させる日が近づいたと運動を再開させ、九州に残っていた日本人への攻撃を激化、追い出しを図った。日本政府は発足して間もない自衛隊を投入、武力鎮圧に乗り出した。日本に来ていた欧米のマスコミが、独立を求める朝鮮族の人々が自衛隊の攻撃を受けて死傷する姿を同情的に大きく伝えたため、欧米の世論は一気に日本政府に批判的な方向に動いた。日本政府は国内問題だと弁明したが、もはや多勢に無勢の有様だった。


 米軍主体の国連軍が割って入り、国連軍が自衛隊を抑えることで九州での戦闘は収まった。停戦の条件は、3年以内に住民投票を行うこと。KLAは住民が独立の意思を正式に表明するのが住民投票だととらえ、日本政府は国内での自治体の権利拡大の問題でしかないとした。


 3年の間にも九州各地に残っていた日本人はKLAに追い出され、日本人は高千穂を中心に残るだけになった。残った日本人は日本誕生の神話に関わる土地を手放すことはできないと決死の覚悟を固めている。そして、住民投票。投票する前から結果は分かっているし、住民投票自体が外国からの押しつけであると九州に残る日本人はボイコットを決めた。


 …このお話は、コソボを九州に置き換えたもの。民族自決は立派な考えかもしないが、気をつけてみていないと欧米の筋書き通りだったりする。