帰化植物とは、外国から渡来して野生化し、既に生態系の一部になった植物を指す。外来生物は外国から人為的に持ち込まれたりして野生化した動植物で、日本の生態系を乱して有害な変化を与えかねない存在とされる。生物多様性条約の締約国には外来種の導入防止や撲滅などが義務づけられ、日本でも法規制が行われた。
外来生物法では特に特定外来生物の輸入や飼育、譲渡、移動などが禁止され、見つかった特定外来生物は殺処分されたりする。カミツキガメなど人間に危害を加える可能性があったり、農作物を食い荒らしたりする生物が駆除の対象になることは当然とも思えるが、この法律の狙いは「生態系等に係る被害の防止」と広い(同法の生態系等には農林水産業や人間の安全も含む)。
こうした条約や法令は、生態系を保護し、環境保全につながるイメージがあって抵抗なく受け入れられた。しかし、外来生物を含めて人間や農林漁業に害を及ぼす動植物の駆除は従来から行われてきたことであり、新たな法規制で生態系の保護を持ち出したことによって、各国の固有の生態系は保護されなければならないとのイメージを広めた。
ガラパゴス諸島などのような特別な生態系を維持するためには規制によって外来生物の侵入や移入を防ぎ、固有種を保護しなければならないだろう。だが、帰化植物など各種の帰化生物が既に定着しているのが地球上の大半の生態系だ。人間が世界各地に移動・移住して混じり合って生きていることが容認されるのだから、動植物が世界各地で混じり合って生きることも容認されても不思議ではないのに、生態系では混じり合って変化することは否定的に捉えられる。
人間も動植物も世界で移動し、拡散して生存範囲を広げてきた歴史があるのだから、地球の各地の生態系は固定したものではなく常に変化してきた。おそらく、そうした変化が遺伝子の変化と多様性をもたらした。動植物には地域により固有種があるので、それは現代では保護の対象になるのだろうが、各国の生態系を固有のものと見なし、それらの生態系も保護しなければならないとする思考には歪みがある。
歪みとは、環境を固定したものとし、それを維持することが「正しい」とする短絡だ。人間の寿命から見れば、数十年から100年単位の変化は環境破壊にも見えようが、億年単位の地球史からすると微微たる変化に過ぎない。もちろん、人類が人間の寿命に合わせた時間感覚で自然を含めた生存環境を管理し、できるだけ快適に暮らそうとするのは間違ってはいないが、人間の都合に合わせて自然環境を変えるとの思考であることの自覚が希薄だ。
動植物など人間以外の生物は環境に適応して生きるしかないが、人間だけが環境を変える。地球史において環境は常に変化してきたが、環境保護という思想は、変化し続ける環境を人間に都合の良い環境に変えることを正当化する。環境保護を言いたて、実は人間が思うままに環境に変えてきたし、変えようとしている。