望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





女優の眉

 映画で女優の眉が気になる。現代劇では気にならないのだが、時代劇映画で女優の眉が、きれいに剃って細く整えてあるのを見ると、一気に興ざめする。女優の顔がスクリーンに大写しになり、カツラの下の美しい顔の眉が、最新の洋服にも似合う剃った眉であると、時代劇感覚が薄れる。



 いつごろから、眉をきれいに剃って整えた女優が時代劇映画に普通に出るようになったのかは知らないが、メイクで誤摩化すこともできようものを、ファッション雑誌のグラビア撮影の後に、そのまま映画の撮影に来ましたといった風情。



 眉をいじった女優は時代劇に呼ばれることが難しいと以前聞いたことがある。時代劇に一昔前の勢いがないので、人気のある女優を出すために妥協したのかもしれないが、そんな細かい違和感の積み重なりが時代劇映画を滅ぼして行く。TVドラマの時代劇と変わらないじゃないか。



 江戸は遠くなりにけり……もう時代劇の世界そのものが変質したのかも知れない。時代考証にこだわるわけではないが、現代とは異なる価値観の世界があったという前提で時代劇は成立する。俳優に現代のメークを許容するなら、現代の空気が流れ込み、現代とは異なる時代劇の価値観が霞んでしまう。



 一身を犠牲にしての忠義だの、義のために死ぬ男を見送る女の自制心だのといったものは、時代劇だからこそ許容される価値観だ。男女の恋愛感情や家族愛よりも主君への忠義が大事で、時には死んでみせなければならないなどということは、現代の価値観では厳しく批判されよう。だから、時代劇の世界に現代を持ち込んではならないのだ。



 江戸は遠くになりにけり……現代のメークをした女優を許容する観客はもう、時代劇に時代性を求めてはいない。観客は時代劇を観て、カツラをかぶって着物を着た人気役者が、侍や町人に扮して演ずるドラマを楽しむだけ。主君への忠義など時代劇の価値観に、現代風の恋愛感情をまぶして、泣ける場面が1、2シーンあれば観客は満足する?



 そういえば、時代劇に出る若手の男優の台詞から息が漏れていることが珍しくなくなった。そんな役者が力んで台詞を言うと、騒々しいだけ。そんな典型が以前に公開された「桜田門外ノ変」だった。時代を変えようと気負う侍たちがぞろぞろと出てきたが、息を詰めて台詞を言う役者が少なく、声を張り上げて力むばかりで、賑やかだが、底の浅い作品にしかならなかった。



 時代劇の設定を借りた現代劇があってもいいし、主君への忠義などを現代の価値観で批判する時代劇があってもいい。だが、そうした作品が成り立つためには、時代劇の価値観と現代とを意識的に峻別して作品世界を構築することが前提となろう。女優のきれいに整えた眉ごときに、時代劇の世界が揺らぐような映画では、中途半端な映画を作ったと言われても仕方あるまい。