望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





体を張った記者

 


 生命の危険がある戦場などに、記者が業務命令で行かされることは、現在の企業社会では許されないことかもしれない。従業員組合との決めごともあろうが、「○○社は戦場に社員の記者を派遣して死なせた」と世間に見られ、派遣された記者が負傷したり死亡した場合の訴訟リスクも大きい。でもニュースは必要だ。それで、海外の通信社の配信を受けたり、フリーのジャーナリストのリポートを買って載せたりする。



 海外が現場なら、それで済むかもしれないが、国内が現場の場合はどうか。2011年に福島原発の周囲20キロ圏は警戒区域に指定され、法的に立ち入りを制限されたのでメディアも勝手に入ることはできない。でも、取材なら許可を得ることはできそうだが、各社が日常的に次々に入って取材している様子はなかった。



 読売新聞社会部に本田靖春という記者がいた。自ら山谷に潜り込んで血を売って、売血の実態を調べ、告発記事を書いた本田氏は、使い回しの注射針によってか肝炎に感染し、数々の病魔により闘病を余儀なくされた。誰にでもできることではないが、本田氏の記事により売血は一掃され、多くの人の生命が救われた。



 本田氏の「我、拗ね者として生涯を閉ず」(講談社文庫)の「編集付記」から引用するとーー本田さんが肝ガンを病んだのはまさに「労災」である。非人間的な「売血」の実態を世に知らしめるため、そして献血制度確立が急務であることを訴えるため、本田さんは山谷に長期間住み込み、自らも売血を行ったうえでその実態を紙面で告発するのだが、その代償として注射針の使い回しによってC形肝炎に感染する。肝炎から肝硬変、さらに肝ガンへの進行が、自分の身に及ぶであろうことを、かなり早い時期に本田さんは認識していた、と推察する。だが、誰に愚痴るわけでもなく、淡々と身にふりかかった厄災を受けとめるーー。



 本田氏が山谷のドヤ街に入り込んで、売血の実態を取材したのは、およそ60年前、1962年のことだった。当時は買血業者が山谷や釜ヶ崎などに採血所を設け、常習売血者から血を買っていたが、その買った血液に含まれる肝炎ウイルスにより血清肝炎(C型肝炎)が大流行していた。



 本田氏は足掛け5年にわたり、「黄色い血」追放キャンペーンを手掛け、その甲斐あってか日本の血液事業は売(買)血から献血に方向転換した。一方、本田氏は病魔に冒されて亡くなった。