望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

運命の線

 オー・ヘンリーの短編「運命の道」の主人公は、広い世界で生きようと田舎の村を出て、あてもなく歩き続ける。やがて広い街道に突き当たり、左に行くか、右に行くか、それとも引き返すか思案する。そこで物語は3つに分かれ、主人公の異なる3つの人生が描かれるが、いずれでも主人公は同じ銃の弾によって死ぬ。

 この物語は、運命というものを感じさせる。生きる中で人は常に自由意志による選択を重ね、独自の人生を形成すると見えるが、たどる道筋は様々に変化しても、最期の様子が決まっているとすれば、それは運命(定め)と呼ぶしかないだろう。運命が存在しても、どこまで予め決められているのかを人は知りようもないが、誕生と死の状況が決まっているのが運命であるなら、物語の主人公のような最期を迎えることになる。

 だが、運命などは存在せず、生きることは個人の選択の積み重ねで、人生は変化の集積だとの考え方もある。人生を1本の線とすると、個人が選択に直面するたびに複数の線が現れ、選択された線だけが残って他の線はたちまち消える。幼い時からの膨大な選択の積み重ねで個人の人生という線が描かれる。そうした人生の線は、滑らかな線にはならず、無数に折れ曲がった線になるだろう。

 囲碁のプロ棋士は対局で常に数十手先まで、時には数百手先までの展開を考えるという。囲碁は対局者が一手ずつ交互に石を置くゲームだが、一手で局面が大きく変化することもあり、そんな時には時間を費やして先を読む。といっても、一つずつ石が置かれるのを順に考えるのではなく、自分の石と相手の石の展開予想が線のように伸びていくのだという。十数手の展開予想を考えると、たちまち数百手を読むことになる。

 この展開予想という線は、なにやら人生の線に似ていなくもない。石が一つ置かれることは一つの選択がなされることであり、石が置かれる(=選択が行われる)たびに線は一つだけが残り、折れ曲がりながら伸びていく。人生に後戻りがないように囲碁でも、置いた石を後から別の場所に置き直すことはできない。選択は1回性だ。

 報われないと感じたり、色あせていると感じる人生を受け入れるには運命という発想は便利だ。運命ではなく自分の積み重ねた選択の結果であると人生を甘受すると、不満の矛先は自分に向かい、過去を振り返って、あそこで別の選択をしていれば……と悔やむこともあろう。運命を想定すると、自分の幾多の選択も運命というモヤの中に溶け込み、運命には抗うことができないと妥協できる。

 運命があろうとなかろうと、個人の人生が選択の積み重ねで折れ曲がった線の軌跡を描くことは確かそうだ。過去を振り返って、あそこで別の選択をしていればと悔やんでも、後戻りはできない。運命があろうとなかろうと、人は選択をし続けなければならないのが人生。同じ銃の弾で死ぬのかどうか、一回性の人生を誰もが生きるのだから、現実では確かめようがない。