望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





帰属意識の呪縛


 クリミア半島はその昔、モンゴル帝国支配下になったり、オスマン帝国の属国になったり、ロシア帝国に併合されたりし、1921年ソ連の一部になってからも、第二次大戦中にはドイツに占領された。ソ連邦内のウクライナに移管されたのは60年前の1954年。この間に住民の構成も変化し、増えたロシア人が現在では6割を占めるという。



 クリミア半島に「クリミア人」は存在せず、ロシア人、ウクライナ人、タタール人などがいるだけ。クリミアという独立国家が存在したのなら、クリミア人という帰属意識が誕生したのかもしれないが、そんな歴史をクリミア半島は持たない。



 2014年の騒動で、ロシア人はロシアと結びつくことを求め、ウクライナ人はウクライナへの帰属を求めた。内外のマスコミには大量の記事が溢れたが、民族意識が国家への帰属意識として現れることに対する疑問は出ていないようだ。クリミアという独立国家が存在しないのだから、ロシア人やウクライナ人が“母国”に帰属し、その国籍を得ようと望むのは当然かもしれないが、“母国”を離れて住む人々は世界各地に大量に存在する。



 民族意識と国家への帰属意識は必ずしも一致しない。例えば、アメリカ。世界各地から移り住んだ、様々な民族意識を持つ人々が1国を為している。最近の韓国系、中国系などの活動が示すように民族意識を地方政治に反映させようとの動きはあるが、連邦レベルの政治が特定の民族意識に振り回されることはない(少なくとも表面には現れない)。



 人間は個人としての意識を持ち、集団としては民族意識を持ち、さらに、所属する国家への帰属意識を持つ。Aという民族意識を持つ人々が、A民族で主に構成される国家への帰属意識を持つことや、Aという民族意識を持ちつつ他国で暮らす人々が、A民族で主に構成される国家への憧憬を持つことは自然なことだろう。だが、それが“正しい”かどうかは別問題。人間は自由に考え、生きることができる。



 民族意識よりも、個人としての意識のほうが勝っているなら、特定の国家への帰属にとらわれ過ぎることはないだろうし、民族意識を強く持つ人でも、特定の国家への帰属意識とは別だと考える人もいよう。厄介なのは、民族意識に頼る人が、特定の国家への帰属意識民族意識をごちゃ混ぜにしながら、そのことに無自覚な場合だ。民族や国家への帰属意識を支えに生きることは個人の自由だが、他人に強制することはできない。



 歴史を見ると、消えた国家は珍しくない。国家は常に変動して来たし、常に変動している。また、国家を持ったことがない民族も珍しくはない。民族意識や、特定の国家への帰属意識に頼りすぎず、縛られすぎず、人々が個人として尊厳を保ち、個人として尊重されて共に暮らす世界……民族や国家という概念が強いままでは、そんな世界はまだ遠い。