10代や20代の若い頃に、自分が長生きすることや、70歳代、80歳代、90歳代まで生きて老人になることに実感が持てず、反対に、自分は若死にするとか「30歳過ぎまで生きてはいないだろう」などと思ったり、感じたりする人がいる。
若くして死ぬというのは、ある種のロマンチックな空想であり、生き続ける(=年齢を重ね、老いる)ことに実感が持てないことの表れでもあろう。そうした若くして死ぬことは美という主観的な概念と結びつけられ、美しく死ぬ(美しい死)などと装飾されたりもする。
若死にというロマンチックな空想に、若者の正義感や反抗心、純粋さ、思い込みなどが加わると、社会を正して正義や大義の実現のために若死にすることも厭わずという決意に転じたりすることもある。若くして死んでもいいが、ただでは死なんぞという決意だ。
そんな若者が革命家に憧れて革命精神に目覚め、革命運動を行っている集団に参加し、例えば、非合法な暴力闘争をも辞さずに活動したりもする。革命家として死ぬ覚悟は、どうせ若死にするとの意識に支えられていたりもする。革命家として死ぬことも一種のロマンチックな空想であろう。
自分の死をかけているのだからと非合法な暴力的闘争が心情的に正当化され、革命家として短く生きることを若者は納得する。だが、例えば、銃を持って激しく闘うこともできず、世界に紛争を求めて出て行くこともできず、逮捕されることもなく、生活のためと始めた仕事から抜けられなくなったりする。
だが容赦なく時間は過ぎる。若死にするはずだったのが、30歳代になり、40歳代になる。革命家としての死に場所もなく、正義や大義を実現することの現実味が薄れ、生活に追われつつ社会との折り合いもつけて生きてるうちに、正義や大義への見方も変化してくる。生き続けることが現実だと納得せざるを得なくなる。
革命に無縁のまま生き延びた革命家の晩年は惨めにも見えたりする。革命家として若くして死ぬことを夢想すると、例えば、年金などの備えは無視したりするが、生き延びた革命家にも老後がある。社会は変わらずに、ただ細々と生き続けなければならない自分の老後だけが見えてくる。ロマンチックな空想に生きた代償は個人に降りかかってくる。