数年前に北海道新幹線の開業に伴って、青函トンネルを通っていた寝台特急「カシオペア」、急行「はまなす」、特急「スーパー白鳥」「白鳥」が相次いで定期運行を終了した。最終列車の発着駅には多数のファンが集まり、別れを惜しんだと新聞などは大きく扱った。予定された出来事を取材して、ワンパターンの記事に仕上げて紙面を埋めることができるのだから、列車の廃止ネタはマスコミにとって重宝だな。
ワンパターンといえば、動き始めた最終列車に向かって、ホームに集まった人々がカメラを構え、「ありがとう」などとと声を張り上げる様子も、何度も見た光景だ。ありがとうと叫ぶのだから、廃止される列車によほどの思い入れがあるのかとも見えるが、実は「葬式テツ」などと呼ばれる廃止列車マニアだという。
彼らは、東に廃止される寝台列車があれば駆けつけて、写真を撮りつつ「ありがとう」と叫び、西に廃止される路線があれば駆けつけ、写真を撮りつつ「ありがとう」と叫ぶのだとか。廃止される列車や廃止される路線にあまり馴染みがなくても、ありがとうと叫ぶのだとすれば、対象に対する格別の愛着はなく、廃止を惜しむという行為に酔っているのかもしれない。
鉄道が、稼働している時ではなく廃止というイベントの主役になった時に愛されるのだとすれば、本末転倒だ。廃止というイベントに群がる人々が、ありがとうと叫ぶのは、彼らに高揚する機会を与えてくれたことに対する感謝かもしれないし、ありがとうはイベントの「お約束」の言葉で、大して意味はないのかもしれない。
廃止される最終列車を見に人々が集まり、ありがとうと叫ぶのが繰り返されると、それは形式化した行為や言葉となり、社会的に容認された行為や言葉にもなる。廃止される列車などに個人的な思い出があるなら、形式化した「ありがとう」ではなく、個別の言葉で廃止を惜しみ、思い出を語るだろう。
さらに、廃止される列車に対する「ありがとう」の言葉は、物質に感謝しているようにも見える。モノにも精神性を付与することは日本の文化にあることだから、列車に向かって「ありがとう」と叫んでも不思議には思われないのだろうが、ありがとうと物質である列車に叫ぶのは奇妙な行為だぞ。列車には耳がないから、ありがとうと叫んでも無駄だ。
モノを大切にすることが奨励される日本では、モノに感謝する気持ちを持つことも不自然ではないのかもしれないが、実際には物質が精神性を持たないことを忘れがちで、愛着などの個人の思いをモノに託す。それは批判されることではないものの、大真面目に物質に向かって話す行為は、傍からは奇妙に見えることをわきまえておいたほうがいい。