望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

魂と仏教

 魂は「①生きている動物の生命の原動力と考えられるもの。死後は肉体を離れるといわれる。②仕事を支えるものとしての人間の精神。気力」とされ、霊は「①人間の知識や経験を超えて、そこに何かあると感じられるが、実態としてはとらえられない神秘的な現象(存在)。②死者の魂」、霊魂は「その人が生きている間はその体内にあって、その人の精神を支配し、死後も色々な働きをなすと考えられるもの」と新明解国語辞典

 魂も霊も霊魂も物質として存在することは確かめられておらず、その存在は「信じる」か「感じる」しかない。さらに魂や霊や霊魂が、その人の死後も消滅することがなく、どこかに存在し続けることも客観的に確かめられてはいないので、死後の魂や霊や霊魂の存在も「信じる」か「感じる」しかない。

 ある人が信じることや感じることは個人的な経験であり、それを他者と共有することは簡単なことではない。だが、魂や霊などの存在を否定する人が少ないように見受けられるのは、多くの人が魂や霊などに相当する何かを信じたり感じたりしているからかもしれない。魂や霊などの存在が宗教を超えて信じられているのも、魂や霊などの存在を信じたり感じる人が多いからか。

 魂を操作できるとする宗教者がいる。仏教の多くの宗派では仏壇や墓、位牌などを購入した人に魂入れを行うとして、仏壇や墓、位牌などに向かって僧侶が読経を行う。魂入れを行うことによって仏壇や墓、位牌などに個人の霊が宿り、礼拝の対象になるとする。僧侶が魂や霊などを仏壇や墓、位牌などに本当に入れることができるのか誰も知らない。引越などで仏壇を移動させる時には、まず魂抜きを行い、引越先で魂入れの儀式を行うのだという。

 僧侶が本当に死者の魂や霊を読経によって操作し、仏壇や墓、位牌などに死者の魂や霊魂を入れたり抜いたりできるのだとしたなら、それは驚嘆すべきことだ。だが、そうした僧侶の行為は魂や霊や霊魂の実在を前提とし、さらに魂や霊や霊魂を僧侶がコントロールできるとするから成り立つ。魂や霊や霊魂の実在を疑う人々からは、そうした僧侶の魂入れ魂抜きは御布施稼ぎの行為としか見えない。

 魂も霊も霊魂も、その存在を信じたり感じたりする人には実在するものであろうが、その存在を疑う人には実在しない。人々が感じている魂や霊や霊魂と、僧侶が儀式化する魂入れ魂抜きの対象の魂や霊や霊魂が一致していれば仏教に対する信仰は堅固であろうが、一致しなくなれば仏教に対する信仰は形骸化するばかりだ。

 仏教の基本的な立場は無我説にあり、輪廻する主体や中有の状態にある霊魂は否定されるとする説がある(『仏教とは何か』山折哲雄著、中央新書)。「仏教において解脱というのは主体(我)もしくは霊魂的な存在(有)から自由になることを意味」し、無我の立場によって「我と霊魂の存在を否定することになった」。

 しかし、「ブッダは霊魂の有無を論ずることの無益を説いたと伝えられる」が、後の部派仏教の時代に至って「輪廻の主体にかんする反省があらわれ、霊魂的な存在としてのブドガラ(捕特伽羅)を認める議論が登場」した。つまり輪廻転生する主体として霊魂が持ち出されるようになった。ブッダが否定したという魂や霊の存在を後の宗教者が必要としたのは現世的な理由からだろうと推察できる。