「象を喰った連中」(吉村公三郎監督)は1947年2月に公開された映画だから、撮影されたのは前年の敗戦後の1946年か。脚本がいつ書かれたのか詳らかではないが、戦意高揚へ向けて厳しい統制が行われていた戦時中にコメディ映画の制作は難しかっただろう。「進め1億 火の玉だ」などの標語が掲げられていた時代にコメディ映画は似合わないか。
病死した象の肉を焼いて喰った5人の男がいて、その病死した象はバビソ菌に感染していて、その菌を含む肉を喰った人が30時間後に死ぬ例があったと判明して、死期が迫る中で5人と周囲の人々とのやりとりが、ゆったりしながら、だらけさせないテンポで描かれる。簡潔明瞭な状況設定の中で各人の個性が浮かび上がる。
30時間後に死ぬというのに、誰にも切迫感や悲壮感が過剰にならないので、見ている側も、とぼけたセリフや登場人物らの気持ちのすれ違いや勘違いなどを笑って見ることができた。死を覚悟した夫に妻が「どうして象を食べるなんて意地汚いことをなさいましたの?」「私がそんなにもひもじい思いをさせまして?」なんて問い詰めたり、太鼓を叩いて南無妙法蓮華経を唱えさせたり、老母が「勉強のしすぎでオカシクなったに違いない」と、もうすぐ死ぬと言う息子の気持ちを鎮めるために一緒に子守唄を歌ってあげたりと周囲の人々の反応が可笑しい。
切実感があるのは子持ちの父親を演じたのが笠智衆で、現実感のある悲しみを混ぜて見せることで、とっぴな設定による現実離れした物語だとの色合いを弱め、地に足がついたコメディ映画になった。チャップリンを意識したと思われる笠智衆の木訥とした風情の演技がコメディ映画の雰囲気を盛り立てた。
このコメディ映画は役者の騒ぎまわる演技や展開で笑わせるのではなく、なごやかで温かみがある登場人物が、突然の出来事に巻き込まれて狼狽して、互いを攻め合ったり、他の人々を助けるために自己犠牲を表明したりと、目前の死を意識して揺れ動く各人の心情を描き、そこに周囲の人々の思いを絡ませて、軽やかに描いた。
加熱処理することでバビソ菌は死滅することが判明し、誰も死なずにハッピーエンドで映画は終わる。死期を意識した人々による約1日間の騒動は、戦時中の厳しい統制から脱した人々の日常を描いたものでもあった。定職があり、住む住宅もある登場人物たちは、おそらく当時の中産階級に属する人々であっただろう。生活苦などと無縁な状況設定だったから、ほんわかとしたコメディ映画が成立した。
1946年は2月に食糧不足に対応した食糧緊急措置令が出されたが、都市部の食糧配給の遅配・欠配が深刻となっていて、5月には25万人が皇居前広場に集まって「米よこせ」と食糧メーデー集会が行われた。病死した象でも喰うという状況は現在からすれば空想の領域かもしれないが、食糧難の当時では、「象でも何でも喰えるものは喰う」との人々の衝動には少し現実感があったかもしれない。