望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

カメラ女子の未来

 「カメラ女子」という言葉が一般化したのはいつ頃だったか覚えていないが、オリンパスがミラーレスのPENを発売してから、カメラを持つ女性を街で見かけることが珍しくなくなった印象がある。同じ頃にパナソニックもCMに女性タレントを起用してアピールしていたから、カメラ業界にそんな流れがあったのかもしれない。



 それまでは女性が持つカメラといえばコンパクトタイプが多かった。写真を撮ることが好きな女性でも、大きく重たい一眼レフを持ち歩くのは大変だろう。そこに、小型軽量のミラーレスが誕生し、一眼レフ並みの写真を誰でも撮ることができるようになった。観光地などで、一眼レフを持つ男性と、ミラーレスを持つ女性のカップルを見かけることもよくある。



 カメラ女子が持つカメラにミラーレスが多いといっても、ミラーレスは女子用カメラではない。デジタル製品の宿命でデジカメは毎年のように機能を高めた新製品の投入が続き、ミラーレスでも高性能の機種が現れ、最近ではプロカメラマン(男性が大半)も使用するようになっている。



 「カメラ女子」の言葉は若い女性を指して使われることが多いようだが、写真を撮る習慣を身につけた女性は、その後の人生でも写真を撮り続けるだろう。家庭を写し、子供の成長を写す。子育てを終えた後は、趣味や旅行などで積極的にカメラをまた活用するようになるだろう。女性を取り込むことでカメラ市場は大きく広がった。



 だが、今のカメラ女子が子育てを終えた頃に、手にするカメラはどんなものになるのだろうか。現在でもコンパクトカメラは、カメラ機能を高めたスマホに押され、市場が縮小している。スマホのカメラがもっと高機能化したなら、一眼レフやミラーレスを含めてカメラ市場そのものが大きく縮小するかもしれない。



 新たなライバルも控えている。その頃にはグーグルグラスなどのウェアラブルコンピューター(身に着けるコンピューター)も一般化していそうだ。あらゆるものにカメラがつけられ、常時撮影し、記録するようになっているかもしれない。そんな未来には、写真を撮るという行為が特別な趣味になり、残っている数少ない一眼レフやミラーレスが高値で取引されるようになっていたりするかもしれない。







次期の都知事がやるべきこと

 東京南部でマグニチュード7級の直下型地震が起きたなら、最悪で死者2万3千人、経済被害は95兆円と中央防災会議。冬の夕方などの場合で、強めの風が吹くと焼失・全壊建物が61万棟になり、都区部の5割が停電して電力不足が1週間以上続き、断水人口は1440万人。帰宅困難者は800万人、2週間後でも避難者は720万人になるという。



 神戸などを直撃した阪神大震災はM7.3で死者6434人、全半壊は約25万戸、焼損棟数は約7600棟、避難者は最大31万人超になり、被害総額は約10兆円だった。東京圏への一極集中で、阪神大震災級の直下型地震に襲われたなら、その被害は巨大になる。



 東京を襲うM7級の直下型地震が発生する確率はどのくらいあるのか知らないが、東日本大震災の影響により日本列島では地震活動が活発になったと言われるので、過去の原発事故のように「起こらない」ものとしての想定と受け止めるのではなく、「起こる」ものの想定と認識して行政は、直下型地震対策を講じるべきだろう。





 大規模地震対策は当然、大規模な東京改造事業となる。1年や2年で完了するような事業ではないし、東日本大震災で東京圏も大きく揺さぶられたのだから、早急に着手しなければならないだろう。ただ、細かな地震対策を寄せ集めるのではなく、地震に「強い」東京につくり変えようとするなら、一極集中の見直しが避けては通れない。一極集中の結果として、被害が巨大になるのだから。



 地震が避けられないとするなら、東京の各地に、被災者や帰宅困難者が一時避難でき、救護拠点ともなりうる大規模な空間が必要になる。だが都内にそんな土地は空いていないとすれば、何かをどかして土地を確保するしかない。

 例えば、山手線内から大学の移転を促し、跡地を防災公園として整備する。大地震による学生の死傷をできる限り減らすことにもつながろうし、郊外の環境のほうが学問に集中できるだろう。東大などのように被災者を収容できる広大な敷地を有するなら防災公園の機能を持たせることもできるが、敷地いっぱいに建物が建っているような大学には移転を促し、跡地を大地震対策に活用したほうがいい。



 知名度ありきで政策のことはほとんど話題にならない都知事選が続いているが、大地震に直撃されるのは都民だ。生き延びたいのなら、東京における大地震対策を都民は真剣に考えて投票したほうがいい。自分が被災者になってから、都知事選で人気投票をしていたことを悔やんでも遅い。



見えない安定

 2020年からの新型コロナウイルスの世界的な流行は、日常の安定という現象は微妙なバランスの上に成り立っているものであり、この世界は常に変化を続けていて、時には破壊的な変化がもたらされて、それまでの安定から人々は放り出され、新たな混乱・混沌の中に置かれることを示した。新型コロナは世界を変え、新たな安定は見えてこない。

 新型コロナは、国境を越えるグローバリズムという経済活動に打撃を与え、観光客の世界的な移動を止め、人々はそれぞれの国内に閉じ込められた。その各国の国内では、パンデミック対策のロックダウンなどで経済活動が大きなダメージを受け、人々は「集まるな、密になるな、接触するな」と警告される中、収入が減ったり職を失ったりと、マイナス方向の変化にばかり直面している。

 新型コロナが世界にもたらした変化は、このパンデミックが終わって以前の状態に戻っても、全てが消えるわけではない。例えば、各国で進んだキャッシュレス化やリモートワーク化などは、その利便性が認識されて更に進行するだろう。人と人が接するビジネスから、デジタルを介した非接触型の経済行動へという変化はコスト低減をもたらすので、加速することはあっても、逆戻りすることはないだろう。

 世界で新型コロナは人々が「会う」ことを制約した。会って話をして、時には一緒に飲んだり食べたりすることがいかに大事な行為であるかを、制約されたことで人々は痛感した。パンデミックが終息すれば人々はすぐに直接会うことを再開し、盛大に互いの無事を喜びあうだろうから、新型コロナは人々に会うことを諦めさせることはできなかった。だが、現実には人々は会うことを制限され、人々は分断されて生きることを強いられている。

 新型コロナのパンデミックがいつか終息すると人々は期待し、大量のワクチン接種が行われるなら21年後半にも終息に向かうと専門家は予想する。だが、そうした予想に確かな根拠は希薄で、先行きは誰にも分からないというのが現実だ。だから、新型コロナがインフルエンザ同様の感染症として居座り、人々は「共存」せざるを得ないのが新たな日常となる可能性はある。そうなると新型コロナを特別に恐れないことで新たな安定した日常がもたらされよう。

 新型コロナと「共存」する新しい日常になれば、経済活動が活発になり、人々が自由に移動し、観光旅行も国内外で復活して、飲み会や宴会、イベントなども気軽に行うことができるようになるかもしれない。だが、新型コロナが感染症として特別視されなくなると、感染者はおそらく自費での治療を強いられるだろう(財政には限界がある)。

 相当数の感染者と死者を許容しながらの日常では、経済的な弱者は更に過酷な社会に生きることになる。各国政府は負債を増やして新型コロナ対策に過大な支出を続けたから、いつか、その帳尻を合わさなければならなくなるので、誰もが手厚い社会保障を望むことは難しくなるかもしれない。

 主権者である人々はパンデミックによる変化には受け身であったが、社会の変化には主体的に関与することができるし、主体的に関与しなければ不利益を押し付けられるだけだ。主権者としての意思表示や行動が、社会に変化を生じさせる。受け身ではなく、立ち向かって発言し、行動することで得られる安定は、変化に強い。人々が変化の主導権を握るからだ。

様々な口径

 「餃子の王将」運営会社の社長が2013年に京都の本社前で射殺されたが、犯行に使用されたのは25口径(直径約6.35ミリ)の自動式拳銃だった。この25口径の拳銃は専門家によると、ポケットに入れて簡単に持ち運べる小ささで、海外では主に護身用に使われるが、発砲音が小さいため「待ち伏せに最適」だという。38口径(約9.65ミリ)に比べて殺傷能力は劣るが、“プロ”が使う時は至近距離で複数回撃つという。



 事件後には、使用された銃が22口径(5.56ミリ)だとの情報も流れた。22口径も護身用とされるが、25口径よりも威力が小さいとはかぎらず、火薬が多い弾では爆発力が強いので殺傷能力はある。33人が死亡した米バージニア工科大学の乱射事件で犯人が使用した拳銃の一つが22口径だった。



 22口径という言葉ではなく「5.56ミリ」が使われたのが、南スーダンで韓国軍に銃弾を陸上自衛隊が提供したことの報道だった。この銃弾は「5.56×45ミリNATO弾」で、同国で展開する各国PKO部隊で5.56ミリ弾を使うのは日米韓だったため、日米が提供したという。



 口径(銃身の内径)の表記が分かれるのは、ヤード・ポンド法を使う英米流では22口径、38口径などの表記になり、欧州ではメートル法を用いて、口径×薬莢長で表記するため。軍用ではNATOが小火器用弾薬の標準化を行い、欧州流の表記だったが、それを多くの国でも使用するようになったようだ。



 軍用で5.56ミリ弾が主流になったのは、アサルトライフル(突撃銃)と呼ばれる自動小銃を採用する国が増えたためだ。ミハイル・カラシニコフが設計したAK47が高く評価され、東欧や中国など共産圏でも生産された。米軍もM16を開発し、このM16が5.56×45ミリ弾を使用していたため、西側陣営では5.56mm×45ミリ弾を使用した自動小銃が採用されたという。



 敵兵を殺すためには口径の大きな銃弾が有利だが、より多くの敵兵を負傷させて、救助介護を含めて敵の戦力低下を狙う現代の戦法では、セミ・フルオートで撃ちまくることができるアサルトライフルが有効だということらしい。口径が小さくなれば兵は、より多くの銃弾を持つことができるので戦闘力は上がる。



 拳銃弾よりライフル弾(軍用も含む)は細長く、より多くの火薬を詰め込んでいるので威力は大きい。それぞれに様々な種類・形状があり、例えば22口径の拳銃弾といっても、人体に対する破壊力が大きな銃弾もあるといい、奥深そう(専門家かマニアの世界だな)。



トランプ氏の最後っ屁

 米議会が可決した9000億ドル(約93兆円)の新型コロナウイルス対策法案にトランプ大統領は署名し、同法案は成立した。署名を拒否するとトランプ大統領は言い、現金給付額の1人最大600ドルは少ないとして2000ドルに引き上げるよう主張していたのだが、政府予算の期限切れが迫り、1200万人分の失業給付の特例措置が失効したことなどから態度を一変させて同法案を成立させた。

 退任間際のトランプ大統領に議会も人々も振り回された格好だが、大統領選での敗北を認めていないトランプ氏が静かにホワイトハウスを去るかどうか定かならず、といって居座ることはできないので、大統領でいる間に何をやるか予測がつかず、イタチの最後っ屁めいた奇策の乱発があるかもしれないと懸念する向きもいるそうだ。

 大統領選の「不正」を裁判で争うことが困難な情勢になってからトランプ氏は恩赦や減刑を連発している。その対象は、娘婿の父親や元側近、支持者ら自分に近い人物だ。ロシア疑惑関連で有罪になった連中が獄中から「救出」されたりしている。さらにトランプ氏は、自分や家族に対する予防的な恩赦を検討しているとの噂も根強い。予防的な恩赦は、大統領退任後にも罪に問われないためとか。

 自分や家族に対する予防的な恩赦を検討しているとすれば、①法に抵触する行為が存在したと意識している、②法に抵触した行為が存在したかもしれないと懸念している、③自分を標的にした報復的な法の適用が行われると心配している、などの理由が推察できる。ホワイトハウスを去れば司法当局に影響力を及ぼすことはできないだろうから不安は増すばかりか。

 トランプ大統領の誕生は米国の民主主義の不安定さの反映だとの見方があるが、誰でも大統領になることができることを示したのだから米国の民主主義は健全だ。問題は、政治家の適性を有しない人物や政治家にしてはならない人物をも普通選挙では当選させることであり、主権者の選好を制限する仕組みが弱いのは民主主義の弱点で、優れた人物だけを選出する仕組みは民主主義にはない。

 トランプ大統領は既存の政治システムの部外者であり、政治家として不適当な人物でも大統領職は務まると実証したが、国内外で大いに既成の秩序を掻き乱した。それは変化を促進させ、ある種の新風を国内外の政治に吹き込んだが、既成秩序の崩壊を促し、特に国際秩序の不安定化を可視化させ、中国をはじめ帝国主義的な拡張政策を隠さない諸国の出現を許した。

 トランプ大統領の功績は様々あるだろうが、歴史的な評価は、現在進行中の国際秩序の変化が一段落ついた後になるだろう。米国は衰退したからトランプ氏を大統領に選んだのか、まだ活力があるからトランプ氏を大統領に選んだのか不明だが、トランプ氏のような人物でも大統領になることができるのは米国政治の懐の深さであることは間違いない。





愛を求める国家

 「寛容と民主主義の原理が愛の原理と、多くの場合に矛盾する」と加藤周一氏は書いた(『E.M.フォースターとヒューマニズム』)。続けて「両方を救おうとすれば、一方を個人的面にかぎり、他方を社会的面にかぎって、一種の二元論をとるほかはないだろう」とする。

 この文はフォースターの思考を、「政治とか文明とか公的な問題に関して『愛』の原理をもち出すのは、見当ちがいだということを強調し、その代わりに『寛容』を説いている」と説明した後に出てくる。フォースターは世界を、公的(社会的)な面と、私的(個人的)な面とに、はっきり別けて考えていた。

 フォースターは言う。「愛は私的な生活においては大きな力である。すべてのものの中でもっとも偉大でさえあるだろう。しかし公的な事柄については役に立たない。(これは)世俗的な立場から同胞愛を強調したフランス革命が、繰り返し試みてはっきりしたことである」。公的な事柄を愛さなければならないという思想は「不合理で、非現実的で、危険である。そういう思想はわれわれを漠然とした感傷主義の危険に導く」とする。

 さらにフォースターは言う。「実際にわれわれが愛することができるのは、個人的に知っている相手だけである。ところが余り多勢の人間を個人的に知ることはできない。公的な事柄、たとえば文明の再建というようなことには、愛ほど劇的でも感動的でもない何ものか、すなわち寛容が必要である」

 人々に「愛する」ことを要求する国家が過去にあり、現在もある。なぜ人々に「愛される」ことを求める国家が出てくるのだろうか。私的な領域での愛と、公的な領域での愛が同類のものだとするなら、「愛される」ことを(時には強権的に)人々に求める国家とは、なびかない相手に力づくで迫る個人を連想させ、傍からは惨めな姿にも映る。

 私的な領域での愛と、公的な領域での愛が異なるものだとすれば、どのように異なるのかを国家は明らかにすべきだろう。しかし、その種の国家が人々に求める愛が、対象などを限定した愛ではなく、全面的な国家への忠誠と同種の感情なのだとすれば、違いを曖昧なままにし、私的な領域での愛と混同させ、愛に伴う使命感を人々に持たせたほうが国家には都合がいいだろう。

 人々に「愛される」ことを求めない国家は、おそらく民主主義国であろう。フォースターは、政治的意見の多様性を許し、批評を許すからと民主主義を支持する。彼は「民主主義がはじまるのは、個人の重要さと、あらゆる型の人間が文明をつくるのに必要だということを認めることからである」とし、議会の価値を「批評し、言論し、その言論の広く報道されることを許すから」とする。

 人々に「愛される」ことを求める国家は、人々に多様性や批評を許さなくなった国家だろう。多様性が尊重される民主主義において、人々に求められるのは愛ではなく、多様性を許す寛容だとフォースターは言う。人々に「国を愛せ」と求める政治家がどれくらいいるか……それが、その国の民主主義の実態を示すバロメーターなのかもしれない。





捨てるべきもの


 妙な例えだが、夏に日焼けをして、大きく剥けた皮膚を「楽しかった夏」を思い出す記念品として大事に保存しておくというのは個人の勝手だが、それを他人に見せて、いかに楽しい夏だったかを説いても、共感を得ることができるとは限らない。むしろ、反対にドン引きされる可能性のほうが高そうだ。



 2013年12月26日に安倍晋三首相が靖国神社を参拝して以来、中国、韓国は強い日本批判を続けた。中国外務省は「侵略と植民地統治を美化し、国際社会の日本の軍国主義に対する正義の審判を覆そうと企んでいる」とし、韓国政府報道官は「戦犯を合祀している靖国神社を参拝したことは誤った歴史認識をあらわにし、日韓関係、北東アジアの安定と協力を根本から傷つける時代錯誤的な行為だ」とした。



 さらに中国の外相はロシアの外相と電話会談し、両国は「反ファシスト戦争の勝利国として共に国際正義と戦後の国際秩序を守るべきだ」と歴史問題で共闘するよう呼び掛け、ロシア外相は「靖国神社の問題ではロシアの立場は中国と完全に一致する」と応じたという。国際的に日本批判を繰り広げている国々に安倍首相は、さらなる日本批判の口実を与えてしまった。



 安倍首相は、日本のために犠牲になった英霊に尊崇の念を表したことと、外国人を含め全ての戦場で倒れた人々を慰霊する鎮霊社にも参ったことを言い、「二度と再び戦争の惨禍によって人々の苦しむことのない時代をつくるとの決意を込めて、不戦の誓い」をしたという。戦争指導者の責任に関して問われ、戦後は基本的人権を守り、民主主義、自由な日本をつくり、世界の平和に貢献しており、「今後もその歩みにはいささかも変わりがない」と述べた。



 しかし、安倍首相の参拝という行為が世界には、日本が中国、韓国との対立を強め、さらには「誤った歴史観」を表すものであるかのように伝わった。米国やEUなどからも、地域の緊張を高めるとの批判が出された。安倍首相の談話は国際的には一顧だにされなかった印象だ。今回の参拝で、日本が得たものは何もなく、失ったものはある。



 これは外交的には失策だったというしかない。安倍首相の就任以前から中国、韓国は、異常とも見える日本批判を続け、首脳会談も実現しない関係であるから、「じゃあ、こっちも好きなようにやらせてもらう」という意思表示だったのかもしれないが、それが靖国参拝というカードでしかないとするなら、日本外交の弱体さを示しただけだ。中国、韓国に対して日本外交に打つ手がないことの現れでしかない。



 日本外交が早急に取り組むべきは、中国や韓国が振り回す「歴史問題」のカードの威力を弱めることだ。しかし、相手国からカードを取り上げることはできないのだから、戦後の日本が「連合国史観」を共有しているとの情報発信を国際的に強化するところから始めるしかない。靖国参拝は、中韓の「歴史問題」カードに光をあてるという逆効果になった。



 霊の存在は科学的に証明されておらず、霊に関わることは宗教の領域だ。だからこそ、靖国神社に政治家が距離を置くべき理由となり、また、距離を置くことを政治家は“正当化”できる。「剥けた皮膚」を大事に保存するのは個人の勝手だが、誰に見せても喜ばれる……というものではない。