望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

地中海の魚介類

 死んだクジラを水深500mの海底に沈め、どういう生物が群がるかをJAMSTEC(海洋研究開発機構)が2013年に調査した。海底に横たわったクジラの死骸にカグラザメコンゴウアナゴ、ムラサキヌタウナギ、オオグソクムシ、エゾイバラガニなどが次々と現れて食い尽くしていく様子が映像に記録された。

 深海の海底に沈んだクジラの死骸には「鯨骨生物群衆」という生態系が形成される。最初に死骸の肉を食う生物が現れて数カ月かけて肉を食べ、次に残った骨を食うゴカイ類などの生物が現れて数年かけて骨を分解し、さらにクジラの骨の有機物は細菌に分解されて硫化水素が発生するが、やがて硫化水素を利用する貝などが集まるという。「骨の形が分からなくなるまで分解されるには少なくとも10年以上かかる」と専門家。

 JAMSTECは有人潜水調査船を使ってブラジル沖の水深約4200mの海底でクジラの骨が散らばる鯨骨生物群集を発見した。そこにはゴカイやコシオリエビ、巻貝、ホネクイハナムシなどの41種類以上が生息しており、ほとんどが新種と判明した。栄養が極めて乏しい深海の海底ではクジラの死骸は貴重かつ大量の有機物であり、100種類以上の生物が群がるとみられている。

 人間の場合、肺に空気が入った状態では浮くが、肺の空気がすべて抜けた状態(=死体)ではほとんどが沈むという。深海の海底に沈んだ死体は水温が低いため腐敗が進まず、水圧が高いので死体の膨張が抑えられ、浮き上がることがなく、海底で体の組織が変性して死蝋化して数年以上も低酸素の環境で保存されるという。一方、人間の死体も深海で多くの生物に分解されるとみられるが、詳細は不明だ。

 カナダで行われた研究では、ブタの死体を約94mの海底へ沈めると大量のエビやカニなど甲殻類が群がって食べ尽くし、さらに深い海底に沈めた豚の死体は4日ほどで骨だけになったという。研究でブタの死体を使ったのは、体の大きさがブタと人間は同程度で、生物学的にもよく似ていることと、法医学研究では人間の死体の代わりにブタの死体が使われることがあるからだという。つまり、海底に沈んだ人間の死体はブタの死体と同様の分解過程を経る可能性がある。

 大勢の移民を詰め込んだ船が地中海に乗りだし、欧州入りを目指す動きは以前から続いていたが、今年は活発化し、イタリアにはすでに12万人以上の移民が殺到している。移民を乗せた船が沈没しても捜索や救助が全く行われないこともあるといい、地中海の海底に沈んだ移民の数は少なくないだろう。地中海中央を横断するルートでは2021年以降2836人の死者と行方不明者が確認されていると国際移住機関(2022年10月24日現在)。

 地中海の海底に沈んだ移民の死体にはおそらく様々な生物が群がって、やがて分解されていくだろう。一方でイタリアなど地中海沿岸の欧州諸国ではロブスターやオマール、カニなど甲殻類の料理が食べられている。海底に沈んだ移民の死体が地中海の食物連鎖に取り込まれるとすると、地中海で漁獲される魚もその中に含まれよう。移民の死体を食べた魚介類がそのまま食卓に上がっているかどうかは誰も知らない。