望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

えんぴつで資本論

 こんなコラムを2006年に書いていました。

 薄く印刷してある「奥の細道」をえんぴつで、なぞり書きしながら読んで行く本が売れている。柳の下にドジョウは3匹、4匹……徒然草百人一首など各社は同じ趣向の本を次々に発売してブームの様相だ。「脳トレーニング」ブームに乗って売れたともいわれるが、きれいな字を書く練習をしながら教養を身につけたいとの願望もあるようで、当初の狙いの中高年のほか若年層にも売れているという。なぞり書きという「お手軽さ」と鉛筆を使うという「レトロ感」が奇妙な相乗効果を上げているという見方もある。

 「奥の細道」をもってきたのも成功の一因だろう。誰でも知っている有名な作品だが、実際に読んだ人は少ない。そう考えると、古典はほとんどが対象となる。徒然草百人一首に続いて伊勢物語枕草子方丈記土佐日記竹取物語など候補はいくらでもある。源氏物語だって分冊すれば可能だ。万葉集古事記だって万葉仮名を適度に現代語化すれば、「えんぴつで~」の仲間に入れることが出来よう。鎌倉時代の名僧の著作も、適度に現代語化すれば、仲間入りだ。そうなると平家物語や江戸時代の仮名草子浮世草子も、仲間入りだ。五千円札の麗人、樋口一葉だって仲間入りできよう。ちゃんと読んでいる人は少ないらしいから。日本国憲法も、仲間入りできる?

 名作なら何度読んでもいいものだから読者が多い作品だって、鉛筆で書いて読んでもいい。例えば、夏目漱石芥川龍之介志賀直哉……こうなると、文章がいいものなら全てが対象になる。若者にも購買層が拡大しているのだから古典に限る必要もない。村上春樹村上龍吉本ばなならの現代作家だって対象になる。

 そうなると翻訳物だって対象になる。例えば「えんぴつで共産党宣言」「えんぴつで、空想から科学へ」「えんぴつで資本論」。今は読む人も少なくなっていようし、リタイアした団塊世代安保闘争の昔を懐かしがって、鉛筆でなぞるかも知れない。「当時買ったけど読まずに終わったから、今度は読んでみよう」なんてね。

 翻訳物で、もっと幅広く狙うならシェークスピアあたりか。待てよ、英語学習熱の根強さを考えると、シェークスピアは原語(英語)を筆記体で印刷して、ペンでなぞるというバージョンのほうが日本語版より売れるかも知れない。書いて外国語に馴染みつつ習得しようという需要を狙う。「書いて覚える○○語」という入門シリーズとして各国語で展開できる。題材には、フランス語ならバタイユ、ドイツ語ならグラス、イタリア語ならボッカッチョ、中国語なら水滸伝、ロシア語ならチェーホフ、米語ならケルアック、スペイン語ならロルカポルトガル語ならセルバンテス…なんてのがお薦め。

 なぞり書きしながら内容がどれだけ理解できるのかは知らないが、テキストと解釈という面倒な議論はさておいて、なぞり書きは「始めやすく」、一通り書けば達成感もあろう。各社の仕掛け方によっては一過性のブームで終わらず、書籍の1分野として定着しよう。

 ところで「えんぴつで、四畳半襖の裏張」、これは今でも発禁になるのだろうか。