望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

「美しい」の危険性

 こんなコラムを2006年に書いていました。

 次期首相確実ということで安倍氏に多くの人々・企業・団体が擦り寄っている。こうした光景は「美しい」のか「あさましい」のか、「美しい国」を目指すとか言う安倍氏に感想を聞いてみたいが、聞いても、また、はっきり言わずに誤摩化すかもしれない。美しくない態度だ。


 安倍氏が感じる「美しい」は、どの程度の客観性を持つものだろうか。例えば、安倍氏と同年齢で、同じ時代の空気を吸って生きてきた人々は皆、安倍氏と同じものを「美しい」と感じるのだろうか。同年齢の日本人100万人が感じる「美しい」は一致するのだろうか。そんなことがあるはずがない。「美しい」は、人により、時により、いくらでも変わろう。


 何を「美しい」と感じ、何を「美しくない」と感じるのかは人により異なる。それぞれの主観に関わる部分が多いからだ。例えばピカソらのキュビズム絵画やモンドリアンらの抽象絵画を全ての人が「美しい」と感じるわけではあるまい。「美しい」と感じるのが正解で、「美しい」と感じない人は間違っている、とはいえない。


 絵画などなら理解しやすいのだが、人の生き方や社会のあり方に「美しい」という言葉が絡んで来ると、やっかいだ。そうしたものの中にある「美しい」は、おそらく絵画などよりも、もっと多様であるから、人生や社会を対象に「美しい」という捉え方をすると、ますます主観的になる。例えば、特攻。大義のための自己犠牲を「美しい」と賛美するなら、中東などには「美しい」自己犠牲が数多くある。日本人の自己犠牲は「美しい」が、日本人以外の自己犠牲はテロだなどとするのは、美意識が一貫していない。


 人生や社会を対象に「美しさ」が語られるとき、それは思想である。思想といっても、構築した論理で他を説得しようとするものではなく、己の情緒を拠り所とし、それへの同調を求める種類のものである。だから、気に入らない質問には説明責任を果たそうとせず、自分に都合のいいことだけを言い募る。公的かつ合理的なものであるべき政策に「美しい」という安倍氏の情緒がかぶせられることの危険性について、マスコミは黙ったままだ。「どうせ短命内閣さ」などと放置していると、マスコミが真っ先に情緒的政策への同調を求められよう(すでに同調が始まっている?)。


 何を「美しい」とするかは個人により様々だ。誰か個人の「美しさ」を政治的に実現しようとすると、人々への新たな強制が必要となろう。権力で人々を強制するのは、自由と民主主義を基本とする社会では「美しくない」光景だが、そんな強制を「美しい」と感じるように政府は人々の情緒をも強制するようになって行く?


 「マクベス」の中で魔女が「きれいは汚い、汚いはきれい」と謎をかけるが、日本人も謎をかけられた。政治は個人の美学を実現する道具なのか。その危険性はどれほどか。


 大した努力もなしに最高権力者に上り詰めようとする安倍氏にはぜひ、人間としてのあり方の「美しさ」を、他人への強制ではなく、自身の立居振る舞いで見せて欲しいものだ。