望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

未来は不安

 天変地異や事件事故・犯罪に巻き込まれることや、自分や家族の罹患、家族や近親者の不幸など人が不安を感じる要素は日常に多い。国によっては、活発に活動する武装集団や犯罪組織による襲撃や誘拐などを現実的な不安とする人々もいるし、政治や経済的要因などによる社会の混乱に不安を感じる人々もいるだろう。

 人が不安を感じるのは、①現実に起きていること(現在)、②起きるかもしれないこと(未来)ーに分かれる。①(現実に起きていること)は可視化された不安であり、②(起きるかもしれないこと)は可視化されない不安だ。ウイルスに対する不安は可視化された不安であるが、必ず感染するとはいえないので、感染するかもしれないという可視化されない不安でもある。

 可視化された不安に対しては、事実やデータを集めて不安の対象になる出来事の起きる確率を検討し、確率が高ければ適切に備えることで過剰に不安がることを軽減できる。不安は情緒を刺激し、過剰に反応しやすい。冷静になれないから不安に駆られるのであり、確率を検討することで情緒にとらわれることを抑制できよう。ただし不安から、確率を過大視する可能性は残る。

 可視化されない不安とは、まだ起きてはおらず、起きるかどうかが不明な事象に対する恐れや心配だ。事実やデータが存在しないので発生確率を検討することは困難で、推定するしかない。とはいえ、起きるかもしれないと強く思って不安を感じているのだから、確率を過大に推定する可能性は高く、過大に推定した確率が不安を鎮める効果は薄いだろう。

 可視化されない不安とは、未来に対する不安である。人にとって未来とは一寸先から数日先、数年先、長くても十年先ぐらいまでだろう(人には寿命があり、100年先とか1000年先などのことに現実的な不安を感じることはあるまい)。起きるかもしれないとの現実感が及ぶのが人にとっての未来であり、もし起きたならとの不安がついてまわる。

 そうした未来が不安なのは、現在や過去における多くの問題が未解決のままであることや、悪い状況になるとの予想や予測がマスコミなどによって振りまかれることも影響する。身近な不安を喚起する典型は天気予報で、大雨や熱波、台風、降雪などへの注意を促すのだが、気象災害が頻発していることから、脅かすように強く注意喚起するのが珍しくなくなり、人々の不安を煽ることに貢献している。

 人類が誕生して以来、人々は生存などの不安を日々感じて生きてきただろう。不安を意識するのは人として自然な自己防衛の反応だとすると、歴史とともに対象が変わるだけで不安を常に感じながら生きるのが人類か。不安を過大視せず、不安に押しつぶされないようにすることがバランスの取れた生き方なのかもしれない。