望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





ネットで問診

 

 例えばグーグルで「胃が痛い」の言葉で検索すると、様々な解説サイトがずらずらっと表示される。自己診断を謳うサイトでは、痛みの部位によって疑われる病名が表示され、それをクリックすると、病気の概略、症状、原因、治療法などの説明がある。さらには、「しばらく様子をみて大丈夫な場合」「病院へ行ったほうがよい場合」の説明もあり、一応の手がかりを得ることができる。



 「腰痛がひどい」で検索すると、様々なQ&Aサイトが上位に表示される。こちらでは具体的な病名を挙げて解説するサイトは少なく、代わりに鍼灸院、整体などのサイトによる解説が増える。「熱がある」で検索すると、厚労省のインフルエンザ対策サイトがトップに表示され、Q&Aサイト、病院サイトに混じって、英語での表現を説明するサイトも上位に出てくる。



 「胃が痛い」については、サイトをいくつか見たならば素人なりに病気の見当がつきそうだが、複数の病気に当てはまりそうな気がすることもある。腰痛や発熱では、サイトを見ても原因の見当はつきそうにない。ただ「胃が痛い」の場合は、書籍版「家庭の医学」などを読むのと同じともいえ、ネットの双方向性という特質を活用してはいない。



 一般人は痛み、発熱、機能障害などが具体的に現れることにより身体の変調を知るのだが、そこから病気や原因にたどり着くのは容易ではない。近隣に気軽に行くことができる医師がいればいいが、そんな環境で誰もが生活しているわけではない。それで、病気の自己診断サイトを見てみると、やはり身体の部位ごとに症状が現れる病名が列挙され、気になる病名をクリックする構成で、書籍版「家庭の医学」を見るのと同じだ。

 

 それで思いついたのだが、自己診断サイトの機能を拡充して、問診機能をつけたなら便利そうだ。いきなり病名を次々にクリックするのではなく、最初に、サイトの詳細な質問事項に沿って、どんな身体の変調がどこにあるのかを細かく自己チェックしていくことで、病名を絞り込んでいくことができる。それから、該当しそうな病気の説明を見る。



 これは病院でも活用できそうだ。病院に行った患者が待合室で待っている間に、タブレットを使って詳細な質問事項(自己チェック)に回答する。診察が始まる時には、それらがデータ化されており、医師はそれを見ることによって、より的確な問診を行うことが可能になる。ただ心配は、医師がつい、人間を診るよりも、データを見ることに偏ってしまう懸念か。


事実の確認

 インターネット上には情報が溢れているが、それは①事実を正確に伝えている情報、②事実を誤って伝えている情報、③事実を歪めて伝えている情報、④事実と無関係に創作された情報、に大別される。その見極めは簡単ではなく、また、人は自分が好む情報を探す傾向があり、正確さが常に意識されているわけでもない。

 さらに、事実を正確に伝えている情報が常に正しいとは限らない。典型的なのは、誰かの発言を伝える情報だ。その発言の存在が事実で、発言内容を正確に伝えている情報であっても、その発言の意味する内容が正しいかどうかは別問題だ。

 例えば、政治家など著名人が「UFOを見た」と言ったと伝える情報。その発言が実際に存在し、発言内容を確認したならメディアは「UFOを見たと◯◯さんが言った」と報じることができる(UFOなら、その情報を見た人は発言を面白がるだけで、UFOの存在を信じる人は少ないだろう。だが、現実的な事項についての発言なら、発言内容を事実と受け止める人がいるだろう)。

 「UFOを見た」との発言の存在と発言内容を確認して歪めずに伝えたなら、メディアは事実を伝えたことになる。しかし、「UFOを見た」とメディアが報じることで、UFOの存在が確かめられたかのように受け取る人もいるだろう。意図的なミスリードでなかったとしても、結果としてはミスリードとなる。

 この種のミスリードを防ぐためには、メディアは誰かの発言を報じる時には、その発言内容を検証し、事実であることを確認する必要がある。だが、発言は当人の見解や主張を述べる場合が多く、客観的な事実認識に基づいていることもあるし、主観的な事実認識に基づいていることもある。偏った見解や主張であっても著名人の発言であればメディアが報じるのは、発言の存在という事実のみに基づく。

 メディアは、発言の内容を検証して客観的事実に基づかない見解や主張は報じるべきではないだろう。誰かが「UFOを見た」のが事実かどうか客観的に検証することは不可能なので、UFOの存在は確認されていないというのが客観的な判断だろうが、UFOが社会的に大きな関心事であるなら、UFOに関する著名人の発言がニュースバリューを持つ。

 「UFOを見た」との発言が事実であっても、本当に何かを見たのか、見たのは本当にUFOかなど確認すべきことはある。ただし、UFOの存在を肯定し、存在するとの認識を広めたいと考えるメディアなら、「UFOを見た」という著名人の発言を積極的に利用するだろう。

「六道遊行」(下)

 六道に興味を持ったのは最近、石川淳著「六道遊行」を読んだからだ。この小説は、天平時代の奈良の都でうごめく盗賊たちの頭「上総の小楯」がふと、時空を行き来するようになり、現代日本にも現れ、二つの世界で出会う人々とそれぞれの因縁を持ち、騒ぎを起こしたり、騒ぎに巻き込まれたりするもの。



 古代の奈良と現代で怪しげな面々が様々な欲に迷い、生き延びようとして競い合い、利用し合い、時には殺し合ったりして大騒ぎする小説だが、奇をてらっただけという上滑りした印象を読者に持たせないのは、硬質な文章で綴られ、場面に合わせて文章の“息づかい”が変幻自在だからだろう。



 この作品は、著者が大作「狂風記」を書き終えた翌年から連載が始まった。このとき、著者は80歳を超えていたが、簡単には感性が“枯れた”りせずに、悟ったふりもせず、教訓や教えを垂れようともせず、卑俗な日常性さえ織りまぜながら、自在な発想を、動きを感じさせる文章で、いきいきと仕立て上げたのが見事。



 古代と現代を行き来する……などという設定は今では珍しくもない。突飛な設定の中に主人公を設定して、登場人物の、ありふれた感情などを書いて、さも新しい世界を描いたという趣の作品は小説にも映画にも増えた。そうした類の作品と「六道遊行」が異なるのは、作者の知性と博識が物語を裏打ちしているところだ。突飛な思いつきを書き綴るだけの作品の世界は、その突飛さが消えると崩れてしまいがちだ。



 この作品では主人公は、天平時代の奈良と現代日本を行き来するが、六道に当てはめると、どうなるか。主人公の小楯は奈良で、藤原仲麻呂道鏡吉備真備和気清麻呂らが権力を争う様を見ながら、彼らの屋敷にも忍び入って財宝や太刀などを奪い、捕まえようとする役人らを打ち倒すのだから、修羅道か。



 でも現代日本に現れた小楯が、投げた白玉を受けた女が生んだ子供を小楯は我が子とし、見守る親を任じるのだから、子への執着も欲の一つと見ると人間道か。小楯は、天道には無縁ながら、修羅道と人間道を行き来して生き、目に見えぬものを盗む術を力を身につけようと、咒法を修め験術を極めることを望む。これも欲とすると、欲からは逃れられない小楯だ。



 六道は、この人間世界から生まれて来た発想だろう。六道があるというより、現世で人はそれぞれの六道を生きる。ある人は地獄道、ある人は餓鬼道、ある人は畜生道、ある人は修羅道、ある人は人間道、ある人は天道というように、時と場合によって、それぞれの六道を生きるしかないのが生身の人間なのかもしれない。







「六道遊行」(上)

 仏教でいう六道とは大辞林によると、「すべての衆生が生死を繰り返す六つの世界。迷いのない浄土に対して、まだ迷いのある世界。地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人間道・天道。前の三つの世界を三悪道、あとの三つを三善道という」とある。道に迷っているばかりの人間に関係がある世界観のようだ。

 ついでに個別の説明を見ると、地獄道は「地獄」、餓鬼道は「飲食が自由にならず、飢えに苦しむ世界」、畜生道は「畜生の世界。悪行の結果、死後生まれ変わる畜生の世界。人間として許し難い行為や生き方」、修羅道は「阿修羅道。阿修羅が住み、常に争いの絶えない世界」、人間道は「人道。人間として守るべき道。人の人たる道」、天道は「天人の住む世界。欲界・色界・無色界の天をいう」とある。



 どうやら輪廻と関係があるようで、「六道輪廻」を見ると「衆生が自分のつくった業により、六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷い続けること」。道に迷っているばかりの人間はどうやら、死んだ後も六道のどこかに生まれ変わって、迷い続けるという発想のようだ。どこに行くかは当人次第で、悪行を重ねた人生を送った人は三悪道のどこかに生まれ変わり、さほど悪行をなさなかった人は三善道のどこかに生まれ変わるという筋書きか。



 輪廻という発想は独特だが、大辞林は「生あるものが死後、迷いの世界である三界・六道を次の世に向けて生と死を繰り返すこと」と説明する。三界って何だ? 「心をもつものの存在する欲界・色界・無色界の三つの世界。仏以外の全世界」のことだという。



 見慣れない用語が次々に出てくる。欲界は「無色界・色界の下に位置する。食欲・貪欲など欲望のある世界。六欲天・人間界・八大地獄のすべてを含む」、色界は「欲界の上に位置し、無色界の下にある。四禅を修めたものが死後に生まれ変わる世界で、初禅天から四禅天の四つに分かれる。淫欲・貪欲などの欲を脱しているが、まだ物質の制約を逃れていない世界」、無色界は「欲界・色界の上に位置する。物質や物質的な思いから解き放たれ、受・想・行・識の四蘊のみから成る。無色界の最上天の非想非非想天を有頂天という」とある。



 理解しようと辞書のページをめくっても、また、見慣れない用語が次々と出てくる。ついでだ。続ける。六欲天は「欲界に属する六種の天上界。四王天・トウ利天・夜摩天兜率天楽変化天他化自在天の総称」、八大地獄は「八種の地獄。すなわち、等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・無間の称」、四禅は「四禅天。禅を修することによって生まれ変わるとされる、色界の四天。初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天の総称」……。



 迷路に入っていく感じで、分からない言葉が次々に出てくる。仏教の世界観に共感するでもなく、理解しようという気持ちもないので、見慣れぬ言葉を次々に追って行っても、全体像は見えてきそうにない。それにしても、三界・六道があるってことを誰が確かめたんだろう? 宗教とは、検証不可能なことでも、正しいと信じることだろうか……やはり、私は宗教には縁遠いようだ。<(下)に続く>


増殖する言葉

 「よりそう」という言葉が増殖している。悲しむ人々や苦しむ人々の悲しみや苦しみに共鳴・共感しつつ見守り、時には励ましたりすることを意味しているようだ。よりそう行為は具体的ではなく、災害の被災者や事故などの被害者に同情し、精神的に支えるなど主に直接的な支援以外の働きかけを指して使われている。

 漢字を混えた「寄り添う」の本来の意味は「相手のからだに触れんばかりに近くに寄る」「ぴったりとそばへ寄る」で、「寄る」プラス「添う」だ。本来の意味での寄り添う行為は、ボランティアや募金活動などを行って被災者や被害者を具体的に支援することだろうが、よりそうは「寄る」ことよりも「添う」ことに重心が置かれ、忘れないとのメッセージの色が濃い。

 よりそうためには対象が必要だが、誰でもいいわけではない。寄り添う相手は自分が興味・関心を持った近くの対象だが、よりそう相手は、距離を隔てて存在する災害の被災者や事故などの被害者で、直接的な支援を行うことが容易ではない対象だ。被災者や被害者は同情される対象でもあり、人々の自然な同情心が刺激されて、よりそうことになる。

 被災者が被災者によりそうのではなく、被害者が被害者によりそうのでもなく、被災者や被害者に平穏な日常生活を続けている人がよりそうという構図。よりそうには、同情するが傍観している気配も漂う。被災者や被害者の間では、寄り添って助け合い支え合うのだろうが、よりそう側と、よりそわれる側には互いに助け合い支え合う関係はない。

 よりそうと似た言葉に連帯があるが、連帯はもっと積極的な精神的支援の意思表示であり、不正義による犠牲があったりすると時にはデモなどとなって現れ、連帯の対象は自国にとどまらず、国際的な動きとなったりもする。よりそうの対象は日本国内に限られ、被災者や被害者の窮状が伝えられても、よりそう人々がデモなどを行うことはない。

 よりそうと、寄り添う。ひらがな表記にすることでソフトな感触になり、直接的な接触感が薄れる。テレビ画面で被災者や被害者を見ながら同情している心境にふさわしい表現だ。同じく増植する「ふれあい」とも共通する距離を置いた間接的な接触感は、濃密な対人関係を好まない風潮の反映かもしれない。

 だが、よりそうことは悪いことではない。次々に自然災害や事件・事故が発生するのだから被災者や被害者も次々に増え、直接的に支援できる対象は限られる。被災者や被害者に無関心ではいられない人々が被災者や被害者に「よりそう」ことしかできなかったとしても、被災者や被害者の社会的な孤立感を薄めることはできよう。

保守か革新か

 

 保守的な人間というと、新しいものを受け入れることには消極的で、新しいことを始めようとせず、それなりに定着している物事を更に続けようとするタイプで、周囲の説得にもなかなか応じず頑固というイメージがある。革新的な人間というと、新しいものを積極的に受け入れ、旧来のものを捨てることに躊躇せず、生活様式を変えることにも積極的なタイプというイメージになる。



 もちろん多くの人は、保守的な面と革新的な面を混在して持っており、ある時には保守的に振る舞い、ある時には革新的になり、また、時間の経過や状況の変化によって、同じ物事に対して保守的になったり革新的になったりもする。若くて貧乏な時には、社会の革新的な変化に賛同し、年をとって資産ができると、社会の変化には否定的になる……なんてのは、よく見かける例だ。



 してみると、保守と革新を分かつ“壁”はそれほど強固ではなく、また、乗り越えることができないほど高いというわけでもなさそうだ。一方で、保守あるいは革新で居続けることをウリにしている人もいる。そうした連中にとっての保守あるいは革新は商売の看板といったところか。



 保守と革新を分けるものは、何に価値を見いだすかということだが、その「見いだす」根拠になるのが、主観だったり、論理だったり、習慣だったり、倫理だったりと個人によって様々だから、丁寧に議論しなければ、互いに言い合うだけになったりする。もちろん「価値」についても同様だ。



 保守と革新を政治的に見れば、きれいに分かれそうにも思えるが、保守を自認する人が「世の中を変えよう」と言い出したり、革新とされる人が、少しの変化にも大声で反対したりする。まあ、政治における保守あるいは革新は金看板の類だろうから、実際の言動や行動と齟齬することも珍しくない。日本の革新勢力が、思考様式としては保守的であることは以前から指摘されている。



 保守と革新を政治的に見た場合の問題は、21世紀の日本の社会にふさわしいメッセージを発することができていないことだ。いまだに日本が第二次大戦の戦後体制の中から脱することができないことの反映なのかもしれないが、保守あるいは革新がそれぞれ主張する先にあるものが、ちっとも魅力的に見えて来ないという情けない状況だ。保守あるいは革新の金看板を捨てた時に見えてくるものがあるだろうに。



狛犬と阿吽

 

 神社の入口あたりで、参拝者を出迎えるのが狛犬。向かって右側が、口を開けている阿形、左側が、口を閉じている吽形だ。両方が揃うと阿吽の呼吸ということになるのか。狛犬といっても、犬の仲間ではなく、想像上の生き物。昔は、阿形のほうが獅子で、吽形のほうが狛犬だったというが、現在では両方とも獅子のようになっているところが多いのに、呼び方は両方とも狛犬に落ち着いたようだ。



 阿吽とは、「口を開いて発する音声と、口を閉じた時の音声」のことだとか、「最初に発する言葉と、言葉の終り」だとか、「吐く息と吸う息」だとか様々に言われる。そこから「万物の初めと終りを象徴する」なんて解釈もあるそうだ。



 阿吽は狛犬だけではなく、例えば、東大寺南大門の金剛力士像などに代表される仁王像も阿形と吽形が対になっている。口をかっと開けている阿形も、口を閉じて歯を食いしばっているような吽形も、どちらも力感がみなぎっている造形で、迫力のあるものが多い。寺社内に敵が入ることを防ぐ役目があるというから、力強くあることが求められるのだろうな。



 闘う時に口を大きく開けたなら、力が抜けるようなイメージもあるが、戦国時代などの合戦で戦端を開く時、ワアーなどと大声を発しながら突進するのだから、口を開けても力は入るのだろう(合戦は、映画やテレビで見ただけだが)。それに、ライオンなどの肉食獣は、獲物に襲いかかる時や敵と戦う時には、口を開けて牙をむき出しにする。肉食獣が襲いかかる時に、黙って口を閉じたままでは、使える武器は爪だけになる。



 人間には力を入れる時に、口を結ぶタイプと、口を開けるタイプがあるようだ。重いものを何人かで持ち上げる時に、「せえ~の」で力を合わせて、口を閉じてウンと息を出して力を入れる人が多いように思えるが、声を出す人もいる。そんな時に他の人の顔を見たことはないが、声を出している人は口を開けているのかもしれない。



 野球のバッティングでは、構えている間もスイング中も腕に力を入れず、インパクトの時にだけ、球に負けないように力を入れるのだという。力をこめるインパクトの時に、多くのバッターは口をぐっと閉じる。王選手などプロ野球で活躍した人で、奥歯がガタガタになった人は珍しくないというから、相当の力の入れ具合だな。



 反対に、インパクトの瞬間に大きく口を開ける人もいる。例えば、長嶋茂雄さんや宇野勝さん。二人とも何やら“天然”のイメージが共通するようで、力を入れる時に口を開けるのは陽性のタイプなのかと思いたくなる。



 長嶋茂雄さんと松井秀喜さんは国民栄誉賞を授与された。松井秀喜さんはインパクトの時に、口をぐっと閉じるタイプだ。阿形のバッターと吽形のバッターが対で揃った。その石像を、野球神社なんてものがあったなら、鳥居の近くに狛犬代わりに据えておきたい。でも、対になるのは、やはりONかな。