望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

「六道遊行」(下)

 六道に興味を持ったのは最近、石川淳著「六道遊行」を読んだからだ。この小説は、天平時代の奈良の都でうごめく盗賊たちの頭「上総の小楯」がふと、時空を行き来するようになり、現代日本にも現れ、二つの世界で出会う人々とそれぞれの因縁を持ち、騒ぎを起こしたり、騒ぎに巻き込まれたりするもの。



 古代の奈良と現代で怪しげな面々が様々な欲に迷い、生き延びようとして競い合い、利用し合い、時には殺し合ったりして大騒ぎする小説だが、奇をてらっただけという上滑りした印象を読者に持たせないのは、硬質な文章で綴られ、場面に合わせて文章の“息づかい”が変幻自在だからだろう。



 この作品は、著者が大作「狂風記」を書き終えた翌年から連載が始まった。このとき、著者は80歳を超えていたが、簡単には感性が“枯れた”りせずに、悟ったふりもせず、教訓や教えを垂れようともせず、卑俗な日常性さえ織りまぜながら、自在な発想を、動きを感じさせる文章で、いきいきと仕立て上げたのが見事。



 古代と現代を行き来する……などという設定は今では珍しくもない。突飛な設定の中に主人公を設定して、登場人物の、ありふれた感情などを書いて、さも新しい世界を描いたという趣の作品は小説にも映画にも増えた。そうした類の作品と「六道遊行」が異なるのは、作者の知性と博識が物語を裏打ちしているところだ。突飛な思いつきを書き綴るだけの作品の世界は、その突飛さが消えると崩れてしまいがちだ。



 この作品では主人公は、天平時代の奈良と現代日本を行き来するが、六道に当てはめると、どうなるか。主人公の小楯は奈良で、藤原仲麻呂道鏡吉備真備和気清麻呂らが権力を争う様を見ながら、彼らの屋敷にも忍び入って財宝や太刀などを奪い、捕まえようとする役人らを打ち倒すのだから、修羅道か。



 でも現代日本に現れた小楯が、投げた白玉を受けた女が生んだ子供を小楯は我が子とし、見守る親を任じるのだから、子への執着も欲の一つと見ると人間道か。小楯は、天道には無縁ながら、修羅道と人間道を行き来して生き、目に見えぬものを盗む術を力を身につけようと、咒法を修め験術を極めることを望む。これも欲とすると、欲からは逃れられない小楯だ。



 六道は、この人間世界から生まれて来た発想だろう。六道があるというより、現世で人はそれぞれの六道を生きる。ある人は地獄道、ある人は餓鬼道、ある人は畜生道、ある人は修羅道、ある人は人間道、ある人は天道というように、時と場合によって、それぞれの六道を生きるしかないのが生身の人間なのかもしれない。