望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

杉田玄白の墓

 東京南部にある品川神社の境内に富士塚があり、その山頂からは東京湾へと続く街並みを見渡すことができる。神社の横手には板垣退助の墓がある。神社に墓地が併設されているわけではなく、板垣退助の墓は東海寺塔頭の高源院の墓地にあったが、関東大震災後に高源院が移転して墓だけが残ったという。

 板垣退助土佐藩士で戊辰戦争では土佐藩軍を率いて転戦した後、新政府の参議になったが、征韓論を主張して敗れて参議を辞した。その後、国会の開設を求めて自由民権運動に邁進し、創設した自由党の総理に就任して全国遊説を行った。岐阜で演説中に刺客に襲われて負傷、その時に「板垣死すとも自由は死せず」と言ったと伝わる。この言葉は板垣の墓の横の石碑に刻まれている。

 東海寺は江戸時代に創建された臨済宗大徳寺派の寺院で、かつては4万坪の広大な寺域を有していた。三代将軍の徳川家光沢庵宗彭を招いて創建した寺院で、明治維新で廃寺となったが、塔頭の玄性院が寺号を引き継いだ。沢庵宗彭の墓は現在の東海寺と少し離れた場所にある大山墓地にあり、東京発の東海道新幹線の車窓からチラと見ることができる。近くには賀茂真淵の墓もある。

 沢庵宗彭は73歳で没したが、死ぬ間際に「私はぼろをまとった一介の僧に過ぎない。すでに荒野に捨てた身。自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜間に密かに担ぎ出し、後山に深く埋めて墓をつくるな。二度と参るな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。伝記や年譜を記すな。肖像画も無用」と言ったという。この言葉は悟りの境地によるものか、個人の性格によるものか不明だ。

 東京都港区にある愛宕山は自然にできた山で標高は25.7m。山頂には愛宕神社NHK放送博物館などがあり、急勾配の石段は「出世の石段」と呼ばれ、江戸時代に曲垣平九郎が馬で駆け上って名をあげたことが講談などで語られる。愛宕山を貫く愛宕トンネルの虎ノ門側に栄閑院があり、そこに杉田玄白の墓がある。

 杉田玄白は若狭小浜藩藩医。「前野良沢中川淳庵とともに、江戸小塚原で行われた刑死体の解剖に立ち会ったとき、持参していたオランダの医学書ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さに驚き、翻訳を決意し、『解体新書』を完成」させた(小浜市の関連サイト)。また、辞書がないころの翻訳の様子や苦心譚などを82歳のときに書いた『蘭学事始』がある。

 ぶらぶらと街歩きしている時に、歴史を想起させる痕跡などに遭遇すると「へえ〜、ここに@@があったんだ」などと小さな発見が嬉しい。教科書や歴史書でだけ知っていた人物を身近に感じたりする。目的を決めず、アプリなどにも頼らずに、ぶらぶらする街歩きの楽しみは小さな発見にある。江戸時代や明治時代から人々が暮らしていた場所には歴史の痕跡がそこここに潜んでいる。