望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

ヤスマラエ

 20XX年、日本人の自爆テロ静岡市内のデパートで発生し、ショッピングに来ていた米国人が巻き込まれ、「特攻」日本人とともに死んだ。こんなことが繰り返されるのには歴史的要因もあるが、流さなくてもいいはずの血が流されていることも確かである。歴史を振り返ると……

 <建国まで>
 米国ネイティブ(インディアン)の伝説に「太平洋を渡った果てにある大きな4つの島からなる土地で2000年前に大規模な争いが起こり、土地を追われてさすらい始め、アメリカの地に辿り着いた人々が先祖である」とあり、彼らの信じる神が「いつか時が来たら帰るがよい」と言ったと伝えられている。

 米国が第2次大戦に勝利し、米軍が日本を占領したことこそ、神の言う「その時」だとして、米国で差別、迫害されていた米国ネイティブが日本に移住し始め、その動きにまぎれて、ネイティブの血をひくと自称する多くの非ネイティブも日本に移住、太平洋側の温暖な土地に住み着いた。日本を占領していた米軍は黙認し、次第に移住者は増えた。

 日本人の多くは住んでいた土地から追い出され、1000万人が難民になったと言われた。動こうとしなかった日本人は強制的に集められ、鎌倉周辺と清水から静岡にかけてが居住地区とされ、難民キャンプが作られ、押し込められた。

 やがて日本は米国と安保条約を結んで独立を認められたが、移住した米国ネイティブにも「約束の地」に独立国を作ることが米国主導で進められ、横浜から浜松に至る太平洋岸を日本から切り離し建国、ヤスマラエと命名された。以来、米国を中心に世界に散らばっていた米国ネイティブ達の「帰国運動」が広がった。

 <富士山占領まで>
 米国ネイティブが神から与えられたという「約束の地」など認めない日本人難民は、米軍の力を背景としたヤスマラエ建国に猛反発、しかし、安保条約に縛られて日本政府は米国に何も言えず、日本政府をあてにするのをやめた日本人難民はヤスマラエ内外で独自の独立運動を始めた。ヤスマラエ政府は徹底的に潰しにかかった。相手が素手であろうと抵抗する者は銃撃の対象とし、独立運動に関係していると見なした者を拘束、家族が住んでいようと構わず、その家を破壊した。

 難民キャンプの日本人らは「押し込められて家畜のように生きるよりも人間らしく闘おう」と決起し、ついに武力衝突となったが、米軍の訓練を受け、最新兵器の供与を受けているヤスマラエ軍に日本人難民が組織した独立軍は圧倒され、10万人が死んだという。

 それから10年後、十代の少年らを中心に難民キャンプで独立運動が再び激化し、治安が混乱しかけたところへ、ヤスマラエの外にいた日本人難民と日本人支持者らが義勇軍としてヤスマラエに攻撃をかけ、不意をつかれたヤスマラエ軍が劣勢となったが、やがてヤスマラエ軍が反撃に転じ、義勇軍を追撃して山梨を占領、富士山も完全占領した。日本人は猛反発したが、国の安全保障に必要だとヤスマラエは一切の譲歩を拒否。

 <現在まで>
 月日が流れ、力でヤスマラエを消滅させることは無理と多くの日本人、日本人難民も考えるようになり、共存の可能性を探る動きが米国ネイティブ側にも出てきて、ニュージーランドの仲介で和平交渉が始まった。その結果、ヤスマラエに住む日本人難民の自治権が認められ、自治区が設定された。

 共存への枠組みが整い始めた矢先に、和平交渉そのものに反対していたヤスマラエの元軍人であり国防相のオンガが、それまで日本人の感情に配慮してヤスマラエ政府高官が避けていた富士山山頂への登山を強行、和平機運に暗雲が差し、やがてオンガがヤスマラエの首相に選出されるに至って、日本人の警戒感も高まった、

 オンガは、米国同時多発テロ後の、相手方をテロリストと断定すれば何でも許されるという機運を利用して、テロリスト対策を名目に日本人自治区に軍を侵攻させ、独立運動活動家やその疑いのある者つまり多くの青年の身柄を拘束、抵抗する者は射殺した。拘束された者の多くも、軍は釈放したと言うが、行方不明となった。国際的批判が高まったが、オンガは「これは戦争だ」ととりあわない。

 日本人難民には、爆弾を抱えての「特攻」自爆ぐらいしか軍事的な対抗手段はなく、地下に潜った独立運動の指導部は「じっとしていてもヤスマラエ軍に殺されるのなら、日本人らしく死のう」と「特攻」自爆を煽った。

 ヤスマラエ軍の日本人自治区侵攻と「特攻」自爆、更なるヤスマラエ軍の鎮圧強化で多くの血が流れた。米国が仲介に乗り出したが、米国政界に顔が広いオンガには米国政府の手の内が判っており、1ヶ月は黙認されると知っていた。国連が米国の顔色をうかがいながら動き出したが、ヤスマラエは無視。

 ヤスマラエ軍が自治区をほぼ制圧し、独立運動の活動家の9割を「排除」したところで、米国が再度仲介に乗り出し、その仲介に応じる形で軍をヤスマラエは引き上げたが、自治区の治安確保にヤスマラエが責任を持つ、つまり日本人自治警察を解体することが条件だった。

 こうして和平、共存への希望は踏みにじられ、オンガの富士山登頂以来、流された多くの血が日本という土地に吸い込まれ、新たな報復の芽を育て始めた。