望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

美学に死ねるか?

 美学とは主観であり、個人が持つものである。それは個々の生き方につながる場合もあり、つながらない場合もある。しかし、国家が美学を示し、個人にその美学に沿って生きるように要求することもある。それは統制のためである。「こういう人間になりなさい」「こういう生き方をしなさい」、そして、とどのつまりが「国家のために死ぬのは美しい」とする。

 自分の美学に殉じる人もあろう。それは個人の問題である。他人から強制されることではないし、ましてや国家から強制されることではない。しかし、日本にはそれを行った過去がある。政治家が、社会規範として美学を持ち出した時には、気をつけた方がいい。「国のために死ぬのは美しい」と煽りながら、それを実践した政治家はいない。お先棒担ぎの評論家や学者にも、それを実践した人はいない。実際に死ぬのは誰か?

 映画「ラスト・サムライ」が公開された当時、日本人役者の熱演もあって人気を集めた。そこには侍の美学に殉じた男たちが描かれていた。しかし、侍の美学とは、すべての侍が共有したものではない。美学とは、現実には実現困難だからこそ美学になり得る。すべての侍が腹を切ったわけではないし、腹を切るなんて御免だという侍のほうが圧倒的に多かった。そもそも、すべての侍が侍の美学に殉じていたなら、江戸幕府は生き延び、明治維新は不可能だっただろう。

 映画「ラスト・サムライ」には、新政府の急速な近代化(西洋化)に抗することになった男たちが、負けるを覚悟で、侍であり続けようとする姿が描かれていた。負けることが明らかだったから、侍の美学を追求できたとも言える。日本の侍ものに付きものの忠君などなく、映画「ラスト・サムライ」は「最後には腹を切ればいい。それまでは、やりたいようにやる」姿を描き、ある種の爽快さにつながっていた。

 ただしね、最後には死ねばいいという行動原理は、無責任でもある。腹を切る自分に対しては責任をとっているように見えるが、「あとは野となれ山となれ」的な無責任さがある。映画で見ているぶんには面白いけどね。