望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

ライフ・イズ・ミラクル


 人間がごちゃごちゃ入り交じって、動物も人間の生活の中にごちゃごちゃ入って来る。それぞれ勝手に動き回り、ごちゃごちゃの渦を掻き立てる。


 エミール・クストリッツア監督の映画は以前からそうだったが、2005年の「ライフ・イズ・ミラクル」では、そのごちゃごちゃぶりに拍車がかかり、現実と夢想さえもごちゃごちゃと入り混じり始めた。


 こう書くとクストリッツア映画を観たことのない人は、混乱していて理解することが難しい映画と勘違いするかもしれないが、それは大間違い。陽気な音楽に溢れた画面で人々は語り合い、愛し合い、食べ、飲み、闘争さえもゲームのようにこなし、生きていることを謳歌する。

 それを観ているだけでも楽しむことのできる映画に仕上がっているのだが、民族が共存を目指したり、殺し合って分裂したりの歴史を繰り返してきたバルカン半島の中央部、かつてのユーゴスラビアの監督だけに含意は十二分、映画は様々に解釈できる。つまり重層的な楽しみ方ができる映画であり、そうした作品を作ることのできる監督なのだ。


 話を戻して「ライフ・イズ・ミラクル」。舞台はボスニア。時は戦争が始まる前後。セルビア人の男とモスレムの女が愛し合い、引き裂かれる。民族意識がクソであることを暗示するのだが、メッセージ色は薄い。それは、「解釈をどうしようと、人間は変わらない」「平和の尊さをいくら訴えようと、時が経つと人間はそれを忘れ、殺し合いを始める」という歴史を見据えたリアリズムに立脚した視点で作られているからだ。後悔先に立たずを繰り返すのが人間さと言いながら、人は、生命は愛おしいと謳い上げる。


 現実にはボスニアで多くの人間が死に、コソボでも死に、NATO空爆でも死んだ。数多くの悲劇が彼の地では語られているだろう。クストリッツア映画はリアリズムではない。ある種の寓話であり、生命の讃歌である。それは多くの死を踏まえた上での、生命讃歌の物語である。