望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

ブロッコリーとイカ


 ある日のお昼,昼食のサラリーマンで混み合う都内・本郷にある中華料理店、事務職らしき中年女性のいるテーブルに後から青年が案内されてきて、相席となった。青年は「イカの辛味炒め定食」を注文した。


 5分ほどして「イカの辛味炒め定食」が運ばれてきて,中年女性が軽くうなづき、自分の前に置かれた定食を食べ始めた。料理とり用の大きなスプーンでスープを掬い,気取った素振りで小指を立てて口に運ぶ。次いで皿の料理に箸をつけたところで店員が「レディース定食」を運んできたが,それを見て中年女性,アッと声を発し,「どうしよう。食べてしまった」と小さな声で店員に言う。店員は「いいですよ」と「イカの辛味炒め定食」を引き上げ,代わりに「レディース定食」を置いた。


 この「レディース定食」、各定食の料理の量を少なめにしてデザートを追加したメニュー。中年女性の選んだものは「牛肉とブロッコリー炒め」だった。皿にはブロッコリーが目立ち,イカは入っていない。一目で区別がつこうというもの。


 青年は同じ定食を中年女性も先に注文していたのだろうと、見るともなしに見ていたが,自分の注文した料理を横取りされて“食われて”しまったにもかかわらず、怒る気にもなれない。いや、声こそ出さないが笑っている。


 中年女性はもう顔を上げられず,目線は下に向けたまま、前と同じようにスープをスプーンで掬い、気取った素振りで小指を立てて口に運び,フランス料理のスープを飲むように飲み,丁寧にスプーンを置くと、箸を持ち,ブロッコリーをつまみあげて口に運んだ。


 午前中に会社で何かあって気もそぞろだったのか、個人的事情で頭がいっぱいだったのか、それとも何を注文したのか度忘れしたのか。誰も確かめたわけではないので事情は本人しか知らない。ただ青年の目には,中年女性が深刻な考え事をしていたようには見えず,むしろ、「イカの辛味炒め定食」をしっかり確認して食べ始めたと見えた。サラリーマンで混み合う中華料理店で気取った素振りの食べ方…、そのミスマッチが青年の目を引いたのだが、注文した料理を間違えるトボケ加減と気取った素振りの落差が印象に残った。


 あとから青年は、中年女性がなぜ料理を間違えたのか考えてみた。(1)よっぽど、お腹が減っていたので,出されたものに見境なく手を出した、(2)相席になった青年に中年女性が雷に打たれたように一目惚れし,他のことが頭から消えた、(3)イカを見て急に食べたくてたまらなくなった、(4)後から来た青年よりも自分の方が先に食べ始めたかった、(5)イカブロッコリーの区別を知らなかった。真相はどれか、青年には判断がつかなかった。