望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

皇国原理主義者たち

 こんなコラムを2006年に書いていました。

 東京都では、卒業式で日の丸に起立せず、君が代を歌わない生徒がいたなら、その指導責任を教師が問われるそうだ。起立しない教師への処罰を続け、教師たちは一応抑えこんだから、次は生徒への強制に乗り出した。生徒たちが日の丸に起立せず、君が代を歌わなかったなら教師が処罰されるということらしい。

 先生が可哀想だからと生徒らが日の丸に起立し、君が代を歌うようになったなら、その翌年から狙われるのは親だな。日の丸に起立せず、君が代を歌わない親がいたなら、その子である生徒への指導責任を教師が問われる……。


 正気の沙汰とも思えない事態が教育現場では進行しているようだ。問題は強制の是非である。しかし、この種の議論では問題のすり替えが行われ、日の丸・君が代の是非が問われているかのように「あなたは日の丸に、君が代に反対するのか」などと言い立てられる。

 国旗や国歌についての議論は別にすればいいから、強制の是非に絞って議論すべきなのに、強制しようとする側は日の丸・君が代の妥当性に焦点を当て、非国民をあぶり出そうとするかのような方向に話を持っていこうとする。つまり、強制する側は、強制だけに的が絞られるのは不利だと知っている。


 他人に日の丸・君が代を強制したがっているのはどんな人たちなのだろうか。もちろん、全国では様々な人が関わっているのだろうから、一概には言えないだろうが、国家を後ろ盾にしたがっている人(国家を後ろ盾に自分を立派に見せたい。そのために後ろ盾となる強い国家が必要。と、この種の思考は堂々巡りをする)が多いように見える。なぜ国家の後ろ盾が必要となるか。それは、自意識は強いものの個人として自立できず、そのため個人を支える何かが必要となり、国家イメージにすがらざるを得ないためだ。


 その持ち出す国家イメージが古くさい。妥当性はともかく、アメリカのネオコンのように独自の世界観に基づいた新しい国家像を持ち出すならともかく、歴史の中で、無条件降伏に追い込まれ外国に占領されたという「落第点をつけられた」国家像を持ち出して、よき日本だなどといわれても白けるばかり。簡単に言ってしまうと、それらの人らには知的怠慢がある。