望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

深刻ぶって悲観する

 日本人は「悪くなった」「劣化した」などという言葉が聞こえてきます。些細なことでキレたり、金はあるのに給食費を払わない親など自分勝手の見境がつかなくなってきて、マナー違反やルール無視が珍しくなくなったという指摘もあります。モラルが低下したと、在りし日の「立派」な日本人を懐かしがる見方に一理ありそうな気にもなります。

 個人だけでなく、企業のモラルも低下しているとの指摘があります。相次いで発覚した企業の不祥事などで、経営者が「お騒がせしました」と記者会見で頭を深々と下げる光景にも、またかと驚かなくなりました。一方では、「立派な」企業がもっともらしくコンプライアンス法令遵守)を言い立てなければならないのは、企業活動の実態がアンチ・コンプライアンスであるためだとの冷めた見方もあります。サービス残業がはびこるなど社員を大切にしない企業が、消費者のことなど本気で大切にするはずがありません。

 日本人は悪くなったのでしょうか。

 実は、隠されていた問題が暴かれるようになっただけだとの見方があります。例えば、食品表示の偽装は何年も何十年も続けられていました。そうした偽装が明らかにならないよりは、明らかになって社会的批判にさらされるほうがマシなことは確かです。残酷な犯罪、これはいつの世でもありました。親殺し、子殺しも最近になって始まったものではありません。些細なことにカッとなって暴力沙汰になるのも最近に始まったことではありません。

 では、なぜ日本人は悪くなった、劣化したなどと言われるのでしょうか。

 「悪くなった」「劣化した」は比較の言葉です。それは基準をどこに置くかで違ってきます。どこを基準として日本人が悪くなったとか劣化したと言っているのでしょうか。明治時代の日本人? 戦前の日本人? 昭和30年代の日本人? 別の言い方をしますと、以前の日本人はそんなに立派だったのでしょうか。

 「悪くなった」「劣化した」は、深刻ぶって社会批判をする人が、自説に都合のいいように「昔の日本人」を持ち出しているだけかもしれませんし、悲観的な情緒をまぶしたほうが、批判がより深刻そうに見えるというだけかも知れません。

 「時代の衣装」と言うべきものがあります。人間が持つ軽率さや愚かさの現われ方が時代により違ってきます。その現われた「時代の衣装」に誤摩化されると、人間性の共通する部分が、時代の色により異なったものであるかのように見えてしまいます。

 人間はそう簡単に良くなるものでもないし、悪くなるものでもないでしょう。大げさに日本人を嘆いてみせるよりは、日本人はこんなもの、人間はこんなものと突き放して見ることで「時代の衣装」が見えてくるでしょう。それでも他人・企業の行動が目に余り、どうにかしなければいかん、規範が必要だというなら、その時代・社会に即したマナー、ルールを構築することを考えるべきです。