望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

善悪を離れて

 日本国内や世界各地から大量のニュースが伝えられる毎日だが、目にとまった全てのニュースについて、その背後関係や過去の経緯などを正確に理解している人は少なく、また、正確に理解しようと必ず詳しく調べる人はいないだろう。仕事に関係ありそうだったり生活に影響があったり興味を持っていたりーなど特定のニュースについてだけ調べる人がいるぐらいか。

 背後関係や過去の経緯などを知らなくても多くの人は、国内外の多くのニュースを知って、それぞれに意見(感想)を持つ。ニュースが伝える情報だけで判断するのだが、誤解や短絡、理解不足などが紛れ込んだりし、それらの意見が正しいとは限らない。でも、偏ったり誤ったりする意見だと多くの人は感じていないだろう。

 それらの意見はおそらく、個人の善悪の感覚によって仕立てられる。善悪の基準は、社会で培われた倫理観や価値観など集団が共有するものと、個人が生きてきた中で習得したものが混じり合って形成される。社会や宗教などによって善悪には大まかな基準があるものの、細部は個人の感覚が決めるものだ。

 何を善とし、何を悪とするか。地球が国家によって分割された現在、社会的に悪とされる行為は各国で法により規定され、処罰対象となり、許されざる行為として明確化された。だが、法だけが善悪の基準を独占しているわけではなく、法によらず個人に任されている価値判断=善悪の基準がある。

 法以外の善と悪を判断する基準は個人により様々だが、社会の変化や新たな情報などに影響を受け、揺れ動く。基準が揺れ動くのだから、ニュースに対する判断も揺れ動く。だが、自分の善悪の基準が変化すると認識している人は少なく、自分の判断を常に懐疑的に検証する人もいまい。だから自分の善悪の基準は一貫していると思い込む。

 善と悪を哲学者や宗教家らは真剣に考えるが、一般の人の多くは直感で判断する。直感は思い込みに影響を受けるので、直感による判断の適否は当人には分からない。また、真剣に考えると直感で判断するより的確な判断ができるかどうかは、人によるし、時と場合にもよるだろう。

 善悪に振り回されずに判断するには、事実を検証することだ。直感を判断材料の一つにとどめ、事実を伝える情報をより多く集め、「分析する」と意識する。さらに、判断する時には意識的に善悪の概念を制御しなければならないが、それは簡単ではない。善悪の概念に振り回されないためには、善悪の2分法から離れると意識するしかない。