望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

アキレスと亀

 画家とは何か。絵を描いて、それを売ることで生計を維持している人のことだとすれば、「いつか、認められる」と信じて絵を書き続けているものの、収入は他の仕事で得ている人のことは画家と呼ぶべきではない? それとも、それはアマチュア画家と呼ぶべきか?



 画家とは、自己の表現手段として絵を描くことを選択して、それを実行している人のことであり、絵が売れるかどうかは別問題だとの考えもある。つまり、自分を画家だと思う人は全員が画家であり、絵を描き続けている人は全員が画家だという考え。



 画家とは職業だという判断と、絵を描く趣味を有する人が画家だとの判断がある。職業としての画家になることを、絵を描く人は誰もが夢見るが、描いた絵が売れて、それで生計が立つような人はごく少ない。そこで、画家を断念するか、画家を続けるか。断念するのは、職業としての画家であろうし、続けるのは、絵を描くことを趣味とする画家であろう。



 本人の意識の中で、職業としての画家と、絵を描くことを趣味とする画家が未分化の場合、絵を描きたいという表現意欲の強さが、「自分は職業画家になるべきだ」との意識につながりやすい。逆境になればなるほど、絵を描くという表現行為に没頭することが「活路を開く」ことにつながると思い込む。そうなると、迷路へまっしぐらだ。ろくに働きもせず、絵ばかり描いていて……気がつくと、絵を描き続けて画家を気取る以外に、自尊心を維持することができなくなっていたりする。



 何をどのように描くのか。そこに画家としての個性が出るのだが、映画「アキレスと亀」の主人公の画家は、なまじ画商との付き合いがあったばかりに、商人としての画商の助言に惑わされ、新潮流を追い続ける。そこは映画ではコメディとして描かれるのだが、職業画家になることにとらわれた人間の悲哀、悲惨が漂う。表情の変化に乏しい主役の演技が邪魔になっていないので幸いしたともいえる映画だ。



 対象を変えてみよう。2世、3世など家業としての政治家がある。こちらは、政治家に「なる」ことへの障壁は低いが、政治家に「なって」からの評価の問題がある。狭い世界しか知らず、温室育ちのボンボンに、どれほどの政治が期待できるかとの疑念がつきまとう。政治家を職業とする人が、実は、趣味としての政治しか知らないとしたら、その塁は社会に及ぶ。



 話を画家に戻す。厄介なのは、「死んでから認められる」ことがあることだ。職業画家を目指して失敗しようと新潮流を追って失敗しようと、残った作品が後になって評価されるケースだ。時代が「追いついた」とも解釈できるし、作品単独として見られるようになったからだとも解釈できるが、死後の評価を期待して描き続ける人には「頑張ってね」としか言えまい。