望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

広辞苑によると

 一昔前のエッセイなどでは、ある言葉の意味を明確にするため「広辞苑によると」と前置きして、広辞苑の説明を使って言葉の定義を明確にする書き方が珍しくなかった。広辞苑は権威ある大型辞書とみなされており、その説明は客観性を持ち、共有できるとの暗黙の了解が社会に存在したから可能だった手法だ。

 言葉の定義は個人によって差異があったりする。例えば、民主主義という言葉は「人民が主権を持ち、人民の意思をもとにして政治を行う主義」(新明解)であり、主権者による直接選挙で議会が形成され、そこで国家の針路が決められることを具体的には意味する。だが、民主主義に善きものとする価値判断を付与して、過剰に民主主義を高みに置く論説は少なくない。

 制度としての民主主義と、善きものとしての民主主義は異なる。だが、その違いを明確にさせず、民主主義の定義を共有しない人々が民主主義を論じ合ったところで議論はなかなか深まらず、互いの民主主義観の差異を認識できれば上出来か。言葉の定義は自分も他人も共有していると思い込んでいると、共通して使う言葉に差異があることに気が付きにくいだろう。

 民主主義を制度として理解する立場なら民主主義の限界を議論しやすいだろうが、善きものとして理解する立場なら民主主義の限界という発想は否定されかねない。理想と同義語とみなして民主主義を善きものと高みに置いてしまうと、民主主義の限界を論じることは反民主主義的な思考だと即断する人がいるかもしれない。

 言葉の定義を明らかにすることで、曖昧さは減少する。独りで考えている場合には思考が散漫になることを抑制し、思考がたどる道筋を明確化する助けになる。複数で議論する場合には、常に言葉の定義を確認・共有することで議論の共通土壌が形成されよう。互いに異なる意味合いで同じ言葉を使っていると議論は噛み合わず、互いの主張や解釈を言い合うだけになる。

 多くの人は日常生活や読書経験などから言葉の定義(言葉が意味するもの)を獲得するが、その大半は感覚的な理解で、細かに辞書を引く人は多くはないかもしれない。だから「広辞苑によると」との表現が通用していたのだが、今はスマホで何でもすぐに検索できる世の中だから、広辞苑の“権威”は低下し、「広辞苑によると」との言葉も使われなくなったか。

 広辞苑を含め辞書に載っている説明は編者や協力者が書いたもので、同じ言葉でも辞書により説明が微妙に異なる場合があるが、大要は同じだろう。いわば客観的な言葉の説明といえるが、そこに個人は善悪などの価値判断を付与したりして使用する。無意識に言霊化している人なら、共有できる定義を言葉に見いだす行為を歓迎しないだろう。言葉の定義を明確化することは言霊化に逆行する。