望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

宝クジと起業

 久しぶりに会った知人がしんみりした口調で言うには、「確かに大金をつかんだ奴が幅をきかす世の中ではあるが、二十代の若い奴が宝クジを熱心に買う話を聞かされると、情けないというか寂しい気持ちになる」。知人の子息の同僚に、ナンバーズやロト、ジャンボなど宝クジを買うことに給料を注ぎ込んでいる人物がいるという。

 その同僚氏は起業してリッチになることが目標だそうで、「金持ちの家に生まれもせず、頭もいいわけでもなく、何かにひたむきに取り組み根気もなく、誰にも負けないぞという根性もない」から、元手を得るためには宝クジしか思いつかないそうだ。だから、宝クジは幅広く買い、少しずつでも賞金を積み重ねることを目指しているという。

 リッチになることが目標だから起業は手段でしかなく、起業の具体的な構想はまだないという同僚氏は、とりあえず1千万円もあれば、なんとか起業の道は開けるだろうし、成功してリッチになることができるはずと夢見る。起業に惹かれるのは、リッチになることと成功者だと見られることが同時に実現できるからだとする。

 当たる確率を考えると宝クジは有利な投資法とはいえないが、大金をつかむことが具体的にイメージできる手段だ。何かの起業を計画しているなら、宝クジを買うより少しずつでも貯蓄して資金を貯めるのだろうが、起業することもリッチになることも夢想でしかないのだから、宝クジを買って大金が当たることを夢見るのが似合っているか。

 宝クジが当たることを条件とする構想は、見果てぬ夢だ(ほとんどが実現しないだろう)。大金が当たったなら、あれもできる、これもできると夢の実現が、つい、そこにあるような妄想に宝クジを買った人はとらわれるが、手を伸ばしても、どこまでも逃げていく大金。そんな大金でかなえられるという夢とは、人生に受け身でいることのシグナルでしかない。

 いつの世でも二十代の若者がリッチになることを夢見るのは不思議ではないと理解している知人だが、宝クジを買うことにしかリッチになる現実的な道筋がないと見る若者の姿に物足りなさを感じたという。起業などの夢を追っているようにも見えるが、実際は階級の固定化が進む社会の閉塞感に圧倒され、現実的な希望を持つことを諦めているのじゃないかと疑っている。

 誰もがリッチになることを望むが、ほとんど誰もリッチになることはできない現実。少しでも公平な社会に変えるように連帯して運動するよりも、個人が夢を持って、その夢を追うことが称賛され、夢が実現しなくても個人の責にされて終わり。リッチになれなければ肯定できない若者の人生とは何なのかと知人は考え続けているそうだ。