望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

表現と主張

 子供から大人まで、絵を描く人は多い。何かを表現したいと描き始めて作品を仕上げた当人は精神の充実感を得るだろう。作品を仕上げて満足する人が多いだろうが、中には自分の作品を他の人にも見てもらいたいと公募展に参加したりする人もいる。作品が高評価を得て売買の対象になったりすると、絵を描くことを職業とする画家の誕生だ。

 画家には誰でもなることができる。売買される作品を描く人は他の人からも画家と認められるが、売れない絵を描き続けても画家だとの自負があれば画家だ。前者の描いた絵は芸術作品とみなされようし、後者の描いた絵は表現活動の成果とされる。売買の対象になる作品の芸術的な価値が、売買の対象にならない作品より常に高いかどうかは不明だ。

 売買の対象になる作品は芸術的な価値が高いとされるが、同時に商品としての価値も高い(芸術とされる作品は資産としての価値が高く、転売すると利益が出る可能性がある)。ただし、芸術的な価値と商品としての価値は常に比例するとは限らない。誰も買おうとしない画家の作品の中にも芸術的な価値が高いものはあるだろう。

 芸術としての価値にも、多くの人が認める場合と本人だけが認める場合がある。多くの人が認めない作品は芸術ではないとはいえず、人々による評価と芸術的な価値は必ず一致するとはいえまい。だが、それはしばしば生じることではなく、多くは人々が芸術とみなす作品が芸術とみなされる。

 極めて優れた表現や斬新な表現などによる完成度の高い作品が芸術作品とみなされるが、その表現に主張が含まれることがある。ただし、主張は表現の「解説」であり、主張を省いても優れた表現として自立できない作品は、芸術の名に値しない表現である。それは主張を広めるための宣伝物でしかない。

 だが、主張の宣伝物である作品は、その主張を支持する人々から高く評価される。それは主張を広める媒介物としての評価であり、表現に対する評価ではない。主張を広めるための表現は、極めて優れている必要はなく、斬新な表現である必要もない。主張を引き立たせるためには凡庸な表現でよく、表現として自立することは求められない。

 プロパガンダのための表現も芸術作品になることはあるが、そうした表現は主張と切り離しても自立する。とはいえ、年月とともに主張が陳腐化しても、表現として評価される作品は最初から主張を上回る優れた表現を見せているものだ。主張が評価されただけの作品を描いて満足している画家は、自分の表現が主張に隷属していることを恥じるべきだろう。