望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





誉められること


 2011年の大震災の被災者がパニックになることもなく、落ち着いて助け合っていたことを、欧米など海外メディアが称讃していた。それを日本国内でも多くのメディアが報じた。あまりにも巨大な自然災害に直面した日本人を、少しでも励まそうとの思いがメディアにあったのかもしれない。



 でも、海外メディアが報じる日本人称讃を、程度の差はあれ日本のメディアが報じるのは珍しいことではなかった。海外(特に欧米)メディアに誉められると途端に喜ぶのは、コンプレックスの裏返しか……なんて気がすることもあった。海外メディアの報じるものが絶対的評価ではない。



 自分に対する誉め言葉よりも、批判の方を大事にしろ…なんて処世術めいた言葉を見かけることは珍しくない。なるほどと思う言葉だが、それが実際には困難だから長く言われ続けてきたのだろう。誉められると嬉しいし、批判されると反論するか黙り、けなされると怒るのが普通の人間かもしれない。自分に対する誉め言葉を受け流し、批判を真摯に聞く人はデキテル人だろうな。



 人間が人間を評価することには、評価する側の主観が関わるためブレがつきまとう。数値で評価するならブレはなくなりそうだが、ガイガー・カウンターなどは定期的に調整する必要があるとか。高い数字が出たからといって大慌てする前に、調整して再計測しましょうってことか。ピアノは、絶対音感を持つ調律師に定期的に調律してもらわなければ音程が狂う。



 海外メディアの日本人称讃をありがたがるというのは、日本人の自己評価が揺れ動きやすかったり、低かったりするからか。そんな自己評価の修正に海外メディアの日本人称讃は役立っているのかもしれないが、自己満足で終ってしまう懸念もある。



 日本列島に多くの人が住み、大きな市場を成し、日本語だけで事足りる。日本列島の中での日本人という自己評価と、世界の中での日本人という評価が一致せずに、齟齬をきたしていることが、海外メディアの日本人称讃をありがたがるようにさせているのかもね。