望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





情報統制と虐殺

 日本の代表的なアナキストである大杉栄は、関東大震災発生後の1923年(大正12年)9月16日に、自宅近くから伊藤野枝、甥の橘宗一(7歳)と共に憲兵に連行されて、当時の東京市麹町区大手町にあった東京憲兵隊の司令官応接室で3人とも殺害された。



 大杉が殺害された様子は軍法会議の判決文によると、夜8時半頃、麹町分隊長の甘粕正彦が椅子に座った大杉の後方から、右前腕を大杉ののどに当て、左手で大杉の左手首を握って後方に引き、大杉を床に倒し、右膝を大杉の背骨に当てて強圧し、窒息死させたとしている。伊藤野枝も同じように窒息死させたことになっている。



 しかし、1976年(昭和51年)に、軍法会議の命令で3人の死体を解剖した軍医が作成した死因鑑定書の写しが発見され、死の真相が明らかになった。死因鑑定書は、3人とも窒息死としているが、大杉と野枝は「前胸部ノ受傷ハ頗ル強大ナル外力(蹴ル・踏ミツケル等)ニ依ル」「此ハ絶命前ノ受傷ニシテ」「死ヲ容易ナラシメタルハ確実ナリ」としている。2人は肋骨が折れ、内臓に損傷が残るほどの暴行を受け、とどめに首を絞められた。まさに虐殺だった。


 
 軍法会議は死因鑑定書を無視して判決文を書いた。権力が都合の悪いことを隠すのは古今東西、よくあることだ。だが、記録が残れば、いつの日にか事実が明らかになる(こともある)。



 情報統制は世論を誘導するためだが、全ての情報を、いつまでも統制下に置けるものではない。当時の三宅雪嶺の「火事場人殺し」によると、大杉の殺害のみ公表されていた当初は「甘粕に同情する者が相応にあり、公然命乞いの運動をし、賛成せぬ者を国賊と罵ったりした」「或る部分の宣伝に出でたにしても、甘粕を賞賛する声が、非難する声よりも高かった」という。



 ところが野枝と橘宗一の殺害が明らかになると、「先に同情した者は張り合いが抜け、命乞いの運動をしたとて誰も応じようとせぬ。女と子供を殺したというので、呆れずにおれぬ」「七歳の子供に何の罪あるか。女子供が交じっておるので、甘粕に対して同情が、反感に移り変わった」。



 情報統制下でも、原則論で批判が可能だ。三宅氏は「大杉を殺したことが憲兵大尉として国憲を犯している。憲法に、法律によるに非ずして逮捕監禁審問処罰せらるる事なしと明記してある」「憲兵大尉の職権を以て法律に依らず逮捕して極刑に処するに至っては、単に職権を乱用するのみではなく、憲兵の信用を損じ、併せて広く軍隊に及ぶを遺憾とせねばならぬ」とする。情報統制で、批判を封じ込めることはできない。