望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり




何でも喰う人々

 世界には地域により、また民族により、様々な食文化が存在する。「えっ、そんなものを食べるの!」という食文化もあちこちに存在するが、それぞれの地域で、身近で入手しやすい“食材”を食べてきたという歴史の現れであったりする。



 食文化は、保守的な面と、貪欲に新しい味覚を取り入れて行く面の両方を持っている。たとえばスシ。調理せず、ナマで魚を食べる日本人は、未開で劣った存在であるかのように言う人々が世界各地に一昔前はいたというが、現在ではスシは世界に広まり、各地で独自の発展をも遂げている。



 食べてみて、うまければ、その国の食文化に取り入れられるのは現在では当たり前だろうが、政治的に食文化が変えられることもある。その好例が日本。敗戦後、米の余剰穀物の市場にすべく、パン食の普及が大々的に勧められ、今ではパン食は広く定着した。余談だが、パン食を控えて3食とも米飯に戻せば、日本の自給率はすぐに高まる。



 パン食以外にも敗戦後の日本の食文化には、コーラを始め様々なアメリカの食文化が入ってきて定着した。中華料理からの影響は既に大きかったし、さらには、豆腐などの大豆製品や魚介類など、見た目は従来と同じ食品でも原料が外国産に代わっているものは多い。食文化は、保守的でありつつも、柔軟に変化し続けている。



 飲食店での牛の生レバー提供が2012年に禁止された。駆け込み特需もあったそうで、“もう食べることができなくなる”生レバーが脚光を浴びた。中には、生食は日本の文化だからと禁止されることに意義を唱える向きもあった。



 当時の東京新聞は社説で「食べ物としての生肝は万葉集にも登場する。滋養が高く、権力層に好まれた。戦前にも、モダンな食材として、洋食店のメニューに載った。最近では、美容にいいと『ホルモンヌ』と呼ばれる若い女性の間にも広まった。O157の危険を否定するわけでは無論ない。しかし、食べ物は文化でもある。長く、多くの人に親しまれてきた食材が、一片の通知で簡単に葬り去られてしまうことには違和感がある」とした。



 社説は「口に入れるものである以上、食品に危険はつきまとう。私たち消費者は、食べ物に対して受け身になりすぎてはいないだろうか。どれほど知っているのだろうか。危険すなわち禁止では、かえって正しい食習慣や選択眼が身に付かない恐れもある。消費者も食文化の担い手なのだ。国などが食に関する正しい情報を提供し、業者、消費者はそれを正しく学んで実行する。禁止は最後の手段だ」と結ぶ。



 マスコミは食中毒事件を大々的に報じる。その一方で消費者に「正しく学んで実行する」ことを求める。だがね、それが無理だから、いろいろな食材で食中毒は起きる。牛の解体時から衛生管理が万全な生レバーが少量でしかないことはマスコミ自身が知っているはず。いまさら消費者に「正しく学んで実行する」ことを求めるのは空論でしかない。



 この社説は、食文化を持ち出したところで迷走し始めた。食文化を固定したもののように設定するから見当違いになる。生肝を食べなくなったって、それも日本の食文化だ。それに、禁止されたって、食べたいという個人は食べればいいのさ。文化とは、そうして続いて行く。リスクは自分持ちでね。