望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





英語ができれば

 政府の教育再生実行会議が2013年、国際的に活躍できる人材を育成するため、小学校での英語教育を正式な教科とし、授業時間を増やすことや、実施する学年を早めることの検討を提言に盛り込んだ。国際的に活躍できる人材とは、いわゆるグローバル人材とのことらしい。



 具体的には、小学5、6年生で週に1回程度行っている英語教育の授業時間を増やすとともに、もっと低学年から英語教育を始めるのだという。授業時間を増やせば生徒が英語を習得できる……ものではないことは従来の英語教育が示しているのだが、何か秘策があるのだろうか。そんなに英語を習得させたければ、英語の授業を増やすより、音楽の授業で歌う歌をすべて英語にしたほうがマシなようにも思えるがね。



 こうした小学校からの英語教育に違和感を感じるのは、1)“使える”英語を身につけることと授業時間数との関係が不明、2)早期教育といっても、週に数回程度では効果が不明、3)日常生活において英語が不必要な環境の日本国内で、児童に英語教育の必然性が欠如、などの疑問があるからだ。



 他にも、国際的に活躍できる人材なるものに英語が不可欠であることは理解できるが、英語はできるけれど、話す内容がお粗末では国際的には通用しまい。論理的に話すことができ、共感を得ることができる交渉術が必要だが、それこそ教育の場で訓練すべきこと。小学生の頃から、論理構築と弁論を学ばさせるべきだ。通訳を増やしたいのなら語学学習が最優先だろうが。



 英語が事実上の国際共通語になっている現在、英語を習得することが大事だということは、皮肉にも政治家連中の“失言”が示している。日本の政治家が、その主張を英語でSNSなどを使って世界に向けて発信し、丁寧に説明していれば、欧米における報道も少しは違ったものになったかもしれないが、それをできる政治家があまりにも少ない。今の政治家らが小学校で英語教育を受けていないことが原因かしら?



 別の言い方をすると、英語ができる政治家らが、人権や民主主義を尊重せず、1945年以降の国際体制に疑問を呈したり、異なる宗教や文化などを批判する発言をしたならば、世界中から反論、批判が直接返って来よう。皮肉にも、英語ができない政治家らは、日本語の壁に守られている。



 英語教育を巡る迷走は、「国際的に活躍できる人材」という言葉の定義を曖昧にしているところから始まっている。英語ができれば国際的に活躍できる……というほど甘くはない。英語習得は「人材」の1つの能力であり、日本人にとっては大きな能力のように見えるが、実際のビジネスや国際政治の場では、英語以外の能力が問われる。