望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

測る計る量る

 自然の中に長さや重さは実在するのだろうが、それらの概念を具体化して共有するために人間は単位を考え出し、やがてメートルやキログラムなど世界共通の基準となる単位を設定した。長さや重さは人間が測ることによって数値として現れる。

 時間も人間が単位を設定することで計測可能になった。距離を時間で割ると速度になり、時間に速度をかけると移動距離が示されるように、時間を数字で表すことができるようになって人間の世界認識は飛躍的に広がった。時間の実在については諸説あるようだが、人間が計ることによって時間は認識されるのだから、時間は人間の精神活動と密接に関連する。

 温度も人間が単位を決め、測定されることで認識される。温度の単位を設定したことにより気温の変化が可視化され、最近は地球が温暖化しているとの意識が生じ、気温上昇を2度以内に抑制しなければ大変だなどと騒がれる。温度の単位が存在しなければ、温暖化に対する人々の認識は違ったものになっていただろう。

 力の大きさ(強さ)も単位が設定されて、力の作用が数式化され、力学が発展した。圧力や周波数、振動数、熱量、照度、角度、電流・電圧、電力、磁力、放射能、面積、体積、質量、加速度、密度、運動量、湿度など自然の中に存在する、あらゆるものに単位が設定されている。

 人間の知見が広がるにつれて単位も増えた。例えば、長さの単位は海ではカイリ、微小な世界ではミクロンやオングストローム、宇宙では天文単位(地球と太陽の距離を1とする)や光年があるように、それぞれに適したスケールの単位を設定することで人間は自然や世界の認識を深め、共有できるようになった。

 単位を決め、自然を測定することで人間は自然や世界に対する認識を拡大し、自然に潜む法則性を明らかにしてきた。単位は生活の利便性を高め、不可欠のものともなった。だが、自然界に例えばメートルやキログラムが存在しているのではなく、人が計測することによってのみ現れる。単位は便利でありすぎるため、それが人為的な決め事であることを忘れがちだ。

 単位に類似したものに方向があるが、基準次第で揺れ動く。北を北極方向、南を南極方向としたが、東と西に明確な基準はない。フランスから見てドイツは東にあるが、ロシアから見るとドイツは西にある。また、空のほうを上、地面のほうを下とするが、右と左は基準次第。その人が向きを変えると左右は変化する。基準次第で揺れ動くものは計測できず、単位にはならない。