前回の東京五輪は1964年(昭和39年)10月に開催された。開催地に選出されたのは1959年(昭和34年)5月で、米デトロイト市など欧米の3都市との争いだった。非西欧世界で五輪が開催されたのは東京が初めてで、その後も欧米での開催が多い。非西欧世界での開催は東京、メキシコシティー、ソウル、北京と2016年のリオデジャネイロのみ。ある程度の経済力を持たなければ五輪を招致できない。
その1964年の日本は高度成長の真只中にあった(翌年から不況になったが)。どんな時代だったかというと、1月には、煙草肺がん説で厚生省が専門家による対策会議を設置し、4月には、観光目的の海外旅行が自由化され、上野の国立西洋美術館で開催された「ミロのビーナス」展が盛況だった。6月には新潟でM7.5の地震があり、製油所のタンクが炎上、周辺民家に燃え広がった。
7月には山陰・北陸で豪雨があり、死者行方不明128人。8月には、東京の水不足が深刻だった。9月には東京モノレールが開業。中野ー荻窪間が高架化されたのもこの年、10月には、東海道新幹線が開業した。12月には、都内で郵便受けに現金など投げ込む「変なサンタ」事件があった。
池田勇人首相が入院し、佐藤栄作内閣が発足したのも1964年。8月にトンキン湾事件が起こり、米は軍事介入を本格化させ、日本でも政府が南ベトナムへの緊急援助を決めたり、外相が米軍第7艦隊のベトナム出動について「日米安保の事前協議条項の対象外」と国会答弁した。その一方、横須賀や佐世保で米原潜の寄港に反対する運動が活発だった。
銀座にみゆき族が現れたのもこの年。ニットウェアやノースリーブが流行し、冷蔵庫の普及率は47%に上昇、家庭用VTRも発売された。中卒者への求人率は約5倍になり、経済成長率は12.5%だった(名目17.5%)。今村昌平監督の「赤い殺意」が公開されたが、後の「復讐するは我にあり」の主人公のモデルとなった5人連続殺害の西口彰が熊本・玉名温泉で逮捕されたのは1月。
海外では2月に、ビートルズが初の訪米(ちなみに、来日公演の会場の武道館が開館したのも1964年)。3月には、中国が最後の日本人戦犯3人を釈放し、5月には、五輪サッカー予選のペルー対アルゼンチン戦で判定を巡り観客が暴徒化し、リマ市外にも騒ぎが拡大して死者318人。主審がペルーの得点を無効にしたことが引き金になったともいう。
7月には、シンガポールでマレー人と中国人が衝突し、米ニューヨーク・ハーレムでは黒人暴動。10月には、ソ連でフルシチョフ党第1書記が解任され、後任はブレジネフ。中国が初めての原爆実験を行ったのも10月。一説には、中国がウイグル地区で実施した大気圏核実験によって、同自治区のウイグル人を中心に19万人が急死、急性放射線障害など健康被害者は129万人ともいう。もちろん、放射能は世界にばらまかれた。