望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





バチがあたる?

 例えば、「そんなことをすると地獄に堕ちるよ」と注意された人が、地獄の存在を全く信じていなかったならば、その注意の言葉は空振りだ。同様に、天国の存在を信じていない人に「天国に行くことができるように善行を積みなさい」などと言っても、「天国が存在するなんて、誰が実際に確かめたンだい?」と鼻で笑われるだけかもしれない。



 どこかの宗教が人々に何かを信じることを訴え、「信じなければバチがあたるぞ」などと言っても、その何かを信じていない人々にバチがあたるはずがない(信じていない人々が、バチがあたると思うはずがない)。後から何らかの災いが降り掛かったとしても、信じていない人々はバチがあたったなどとは解釈せず、個別の事象と理解するだろう。



 信じていない人の心には宗教的な言葉が届かないということは、よくあることだ。例えば、日本に住んでいて、ヒンドゥー教イスラム教と無縁な人が、牛や豚を食べることに罪悪感を持つはずもないし、牛や豚を食べてもタブーに触れたことにはならない。宗教的な約束事は信者以外には通用しない。



 信じていない人にとっては、神も仏も怖くはない。でも、神や仏の存在を信じる人達がいて、教えを広めようとする。神や仏が「存在」するには、まず、人々の心に、何かを信じるという動きを起こさせなければならないから、ままならない人生を嘆く人に向かって、地獄・天国・因果応報・神の裁きなどの概念を持ち出して感情を揺さぶり、「信じる者は救われる」などと説く。



 信じる者は救われる……のかもしれないが、同時に、信じる者はバチを信じるということでもある。何かを信じてしまったなら、バチにも怯えるのかもしれない。バチは人間の力では制御できないものだろうから、バチを気にするようになったら、心の平安を保つためには信心が役立つだろう。

 

「信じる者は救われる」という言葉は「信じぬ者は救われない」ということでもある。信じる者が救われるかどうかは実際には判らないのだが、そういう道理が宗教。信じても救われないというのが現実かもしれないが、そんな疑問には「救われるのは死後の世界においてだ」などと検証不可能な領域へ論を持って行かれて、反論もできない。救われたいと思うようになったら、何かにすがるしかない?



 救われなくたって「それが、どうした」と言い、「地獄? 天国? 一度行って見物したいねえ」などと笑い飛ばせるのは、心が強い(心が健康?)人ができることかな。宗教が果たして来た成果は大きいし、信者たちを貶めるつもりはないが、心に留めておきたい。信じていなければバチはあたらない、と。