望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





「許す」こと

「足を踏まれた痛さは、踏まれた人でなければ分からない」という言い方がある。確かに、他人の足を踏んだ人が、足を踏まれた痛さを感じることはないだろう(痛さを想像はできる。誰しも足を踏まれたり、足をぶつけたりした経験はあるだろうから)。



 足を踏まれた痛みは、いつまでも消えないわけではない。体に外部から力を加えられたことによる痛みは時間とともに消える。人体はそのようにできている。痛みそのものが、いつまでも続くなら、それは足を踏まれた痛みが持続しているのではなく、怪我か病気であろう。



 もし、足を踏まれた人が、痛みがいつまでも続いていると主張したとすれば、それは痛みそのものが続いているのではなく、足を踏まれたという行為の記憶を持ち続けているということだろう。さらには自分が被害者になったということの記憶であるかもしれない。そして、被害者感情は自己の主張を正当化するのに役立つ。



 足を踏まれた人がいつまでも、足を踏んだ人を許さないとすれば、どうなるか。例えば、足を踏んだ人が謝罪しても、足を踏まれた側がいつまでも、足を踏まれた痛みを言い続けるならば、足を踏んだ人はさらに謝罪して、相手が金を求めているなら相応の金を渡して、その場を去るだろう。相手が知人ならば、その後のつき合い方を再考し、疎遠になったりするかもしれない。



 足を踏まれた人と、足を踏んだ人がつき合いを続けていくには、足を踏んだ人が謝罪し、相手の足に怪我をさせたのなら賠償する。それで、足を踏まれた人が「許す」と言ってこそ、つき合っていくことができる。足を踏まれたという記憶を消し去ることはできず、忘れることもできないかもしれないが、足を踏まれた人が足を踏んだ人を「許す」ことで、つき合いは続く。



 だから、一度は、足を踏まれたことを「忘れないが、許す。未来志向で今後も、つき合っていこう」と和解したはずなのに、時が経ってから、足を踏まれた人が「足を踏まれた痛みが、おまえに分かるか!」などと態度を豹変させ、けんか腰になって“痛み”を言い立てたりし始めると、そんな人とはもう、つき合ってはいけない……と考えるのが常識的判断だろう。



 足を踏まれた痛み(の記憶)を忘れずにいることは、その人の自由だ。だが、足を踏んだ人を許すことができるかどうかは、その人の人間性の問題だ。足を踏まれた人が「忘れない。だが、許す」と言ってこそ、足を踏んだ人とつき合っていくことができる。もし、足を踏まれた人がいつまでも「忘れない。許さない」と言うのなら、足を踏んだ人と、つき合いを続けることは無理だろう。