望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

「裸の王様」考

 1人の子供がパレードの王様を見て、「何にも着ていないよ!」と叫んだ。王様は「ばか者には見えない」特別な布地で仕立てた衣装をまとっていて、お披露目として大通りを行進していた。家臣にも王様本人にもパレードを見ている人々にも、その特別な衣装は見えなかったのだが、ばか者と呼ばれることを恐れて皆、何かが見えているふりをしていたのだ。

 これはアンデルセンの童話「裸の王様」だ。特別な布地で仕立てたという衣装は誰にも見えておらず、王様の姿は誰からも裸にしか見えていなかったのだが、誰もが王様の衣装が見えていると装った。自分の目で見た現実よりも、ばか者であると見なされることを恐れ、存在しない衣装が見えているとした。おそらく多数の人は、王様は特別な衣装を着ているとの権力からの設定に追随しただけだろう。

 ばか者と見なされるのを恐れるのは、ばか者が社会で低位に置かれるからだ。ばか者の定義は人により様々で、主観に左右されるから、ばか者だと誰もが認める人物はそう多くはないだろう。だから、ある特別な布地が見えるかどうかが、ばか者の判定基準になると人々は、ばか者にされたくないから、特別な布地で仕立てた衣装が見えていることを演じる。

 特別な布地で仕立てた衣装を着たという人が一般人なら、人々は見て、すぐに「何も着ていないじゃないか」と大笑いしただろう。特別な衣装を着たというのが王様だから人々は、どう振る舞うのが社会的に適切かを考え、いつものように王様の行動を称賛することにしたのだ。支配される人々の心理とは、権力に従うことを最優先する。

 そうした心理が希薄な子供だから、王様が何も着ていない現実を指摘することができた。童話では、子供の叫びを聞いて人々はざわめき始め、何も着ていないのかと見たままの現実を受け入れ、ついには皆が「何も着ていらっしゃらない!」と口々に言い始め、その中で王様のパレードは続いたと結ぶ。王様が裸であると言い始めた人々が大笑いしたなら、王様の権威は失墜しただろう。

 権力は様々な「衣装」をまとい、人々の目には強大な存在に見えていよう。それらの「衣装」の全てに実態があるとは限らず、ばか者には見えない布地で仕立てられた「衣装」もありそうだ。ばか者には見えない布地という設定を人々は、その布地が見えない者はばか者だと受け取る。何かが見えているように装うのは、権力との付き合い方だと人々は承知している。

 見た現実を多くの大人は解釈して受け入れる。事実よりも解釈のほうを重視する人は珍しくなく、その解釈がネットやテレビや新聞、雑誌などの受け売りだったりもする。解釈は誰かの主観であるのだが、解釈に事実を混ぜ合わせていたりするので、解釈が客観的なものであると混同したりする。現実を見たままに、「何も着ていないよ!」と指摘できる大人になるのは簡単ではない。