望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





書道で書く言葉

 多くの人が書道を初めて体験するのは小学生の時だろう。初めの頃はひらがなで「ゆめ」「はる」「ゆき」「げんき」「あさひ」「さくら」などと書くことから始め、学年が進んで漢字を覚えるにつれて「星空」「朝日」「新春」「春の光」「青い空」「真夏の海」「美しい心」などと書き、さらに学年が進むと「希望の朝」「自然の美」「青雲の志」「謹賀新年」「南十字星」「心機一転」などと書く。

 四字熟語を書いたあたりで大方の人は書道から離れるが、書道を続ける人は古典を学んで様々な書体を学習していく。美しい字を書くことができるようになったことで満足する人が大半だろうが、中には、さらに自分の個性を発揮して書くことを目指す人や、中には、書くことをパフォーマンスとして演じたりする人もいる。

 書とは「文字を素材とする芸術」「文字を美的に表現した芸術」であり、「符号にしかすぎない文字に芸術的意志を働かせ生命を与えたものが書」なのだそうだが(毎日書道会HP)、「書作品には、その作家の人間性がそのまま素直に表現され、生き方、思想、人格が反映されている」(同)と言われると、かなり創造力を逞しくさせないと書は鑑賞できそうにない。書かれた文字から、書いた人の人格を見るなんて、誰にでもできることではない。

 書く人の生き方、思想、人格が書には反映されているということになると、題材は前向きな言葉や無難な言葉に限定される。書いた人の生き方や思想、人格が疑われるような言葉を書で書くことはできまい。見事な字が書かれていれば、どんな言葉を書こうと構わないじゃないかとも“部外者”は思うが、「芸術」としての書道としては制約があるのだろう。

 だから、書道ではマイナスイメージを漂わせる言葉は排除される。例えば、悪、邪、恥、罪、嫌悪、邪悪、野心、嫉妬、汚点、隠蔽、阿呆、裏切り、汚い奴、戯け者、怠ける、甲斐性なし、ぼけ、ずるい、のろま、ふしだら、暗い未来、前科者、確信犯、貧乏人、金権腐敗、責任転嫁、自業自得などの言葉を、墨黒々と書き上げた作品にはまず、お目にかからない。

 こうした言葉が並ぶ展示会があったなら、見た人達が「いい『汚点』ですなあ」「この、『ふしだら』は書き手の生き方を反映してますな」「この『野心』は、まさに人格を表している」「『ずるい』と『裏切り』ですか。なるほど彼の思想を物語る」などと感想を言いそうだな。こうした言葉のほうが、書き手の生き方や思想、人格が反映されそうな気にもなる。

 こうした言葉が題材としては排除されるのが書道の世界だとしたなら、書かれている言葉の意味と、表現としての書には何らかの縛り(建前)があるのだろう。美しく表現されていれば、題材は何でもいいはずだが、例えば「嫉妬」という字が美しく書かれていても忌避されるなんてところが、自由な表現が不可欠な芸術に書道がなりきれないところか。

 作品としての書から何を読み取るかは、個人に任されている。気張って芸術ぶるのもよし、美しい字を美しいと思うだけでもよし。無名の人が書いた見事な書よりも、著名人が書いた書のほうに高値がつくのも書道の世界。人格を誇る聖人君子ばかりが書を書いているわけでもあるまいし、書に必ず生き方や人格がにじみ出ているわけでもあるまい。見るほうは自由に芸術ぶらずに振る舞うのが気楽でいい。