人気タレントらがエッセイを出版することは珍しくない。本人が書いたという触れ込みで宣伝するが、実はタレントの話を聞いてゴーストライターがまとめたりすることが珍しくないという。最近ではタレント自身がブログを書き、それをまとめて書籍化したりもするので、文章の添削がゴーストライターの役目になるなど変化があるのかもしれないな。
ゴーストライターは、隠れている存在である。代作した書籍などが、いくら好評であろうと名乗り出たりはしない(という約束なのだろう)。「あの本は、実は俺が書いたんだ」などと秘かに満足して、次の仕事に取りかかるというのがゴーストライターの生きる道か。
世間を見回すと、実はゴーストライターは珍しい存在ではない。様々な式典や葬儀で、お偉いさんが読む祝辞や弔辞の類は大半が広報や事務局、秘書などが書いたものだろうし、大臣らの年頭所感の類も本人ではなく大臣官房などが、政策面での齟齬がないように注意して作成したものだろう。
国会での質疑で、閣僚がメモを見ながらたどたどしい答弁をしたり、つっかえつっかえ読み上げる姿は珍しくないが、自分で考えて書いたものならスムーズに読むことができるだろうから、ゴーストライターが官僚であることは明白。まあ、官僚の指示通りに答弁していればボロも出ないし、政策の一貫性も保たれ、余計な批判を浴びなくてすむ……か。
大臣答弁を作成する官僚や、お偉いさんの祝辞などを作成する広報や事務局は業務として行っているのであり、ゴーストライターとしての意識は持っていないだろう。だから「実は私が書いたんだ」などと言い出す人はいそうにないが、「私が書いていた」と言い出す人がいても世間は驚きそうにはない。「そうだろうね。それで?」と冷たく返されるだけ。
ゴーストライターと有名画家の作品の贋作者は似たような存在だ。陰に隠れたまま、自分の“作品”が評判になることを喜ぶ。世間が知らない自分の才能・技術に満足し、世間をすっかり騙したことを楽しんだりする。だが、金銭的な対価は低いだろうし、名声も得ることはできない。だから時には、表舞台で作者とされる人物に少し嫉妬したりするかもしれないな。