望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

人口減少と地方都市


 166年前の1854(安政元)年3月に日米和親条約が締結され、北海道の函館(当時は箱館)は翌年、開港となった(ペリーは条約締結後の4月に函館にやってきて、湾内測量などを行った)。やがて函館は貿易港として賑わい、函館山のふもとに市街地が広がり、その中には各国の領事館もあった。



 明治になってから函館は道内各地と本州を結ぶ流通拠点となり、湾沿いに煉瓦造りの倉庫が連なるようになった。北洋漁業が盛んになるにつれて函館は海運拠点となり、昭和になってからの日露漁業の誕生後は北洋への出漁基地として賑わい、市街地は函館山から離れるように広がった。一方で、度重なる大火で被災し、防火のために道幅を広げるなど近代的な都市計画が進められたところでもある。



 1956年に結ばれた日ソ漁業条約により日本の漁獲量は年々減少したが、函館は母船の出漁基地だったため賑わいは続いた。北洋漁業が打撃を受けたのは、1977年の米ソの200カイリ宣言。これで“漁場”が狭くなり、船団は縮小され、函館から北洋船団が出漁したのは1989年が最後となった。さらに1988年に青函トンネルが開通、同時に青函連絡船が廃止され、北海道と本州を結ぶ流通の拠点としての函館の役目は終わった。



 戦後は函館駅周辺が新たな繁華街として賑わい、さらには五稜郭の近くにも新たな繁華街ができ、さらに住宅地は郊外に広がり、函館山から遠く離れた幹線道路周辺に大型量販店の出店が相次いで新たな繁華街となるなど、函館の市街地は拡大を続けている。



 函館は昭和になってから周辺市町村と度々合併し、現在は渡島半島の南東部がほぼ函館市となっている。人口は1980年代には34万人を超えていたが、最近では25万2647人(9月末現在)と9万人も減った。東京以北で最大の都市と言われたこともあった函館は現在、北海道で人口では札幌、旭川に次ぐ第3位。



 市街地が拡大し、新しい繁華街が誕生する一方で人口は減少している……だから当然“密度”は薄くなるから、駅前など以前の繁華街には人通りが少なくなり、閉鎖したままの商店や住人がいなくなった空き家が目につくようになり、活気がないように見えることにもなる。



 もちろん函館が直面する課題は、人口減少と高齢化だ。これは多くの地方都市と共通する課題でもある。東京など首都圏への人口流出・集中が進み、地方は疲弊していくばかりと言われて久しく、また、首都直下地震への備えも現実的な課題となっているが、東京への一極集中を是正する具体的な対策は遅々として進まない。一極集中という構造は、東京に住む官僚、政治家らの主導では是正できないのかもしれない。



 観光地として高い人気を維持していることが函館にとっては“救い”だが、さらに観光客を増やしたところで函館の人口が増えるわけではない。定住人口を増やすためには、観光業と並び立つ基幹産業が必要だ。それは何か……東京からの視点で考えても、おそらくピント外れになるだけ。地元の人が地元の視点、感覚で探っていくしかない。