望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

嘘と大嘘

 マーク・トウェインが紹介した「世の中には3種類の嘘がある。それは嘘、大嘘、そして統計だ」との言葉は有名だ。統計も全てが客観的で信頼できるとは限らず、政府など発表する側に都合がいいように特定の方向に誘導されたり、不都合な状況を示すデータはぼやかされたり隠されたりすることを指摘した。大嘘とはdamned liesで、大ボラというより、真っ赤な嘘とか実にひどい嘘、全くけしからん嘘という感じか。

 嘘と大嘘の境界は曖昧だ。たわいがない嘘や笑って済ませられる嘘、気分を少し害する程度で済ませられる嘘などは大嘘ではないだろうが、実害が生じる嘘や人間関係を損ねる嘘、社会を混乱させる嘘、人々の怒りを巻き起こす嘘などは大嘘だろう。とはいえ、どこからが嘘で、どこからが大嘘か、その判断は人により分かれ、境界は揺れ動く。

 嘘と真実の境界も曖昧だ。地球を中心にして太陽も月も回っていると言うのは、現代では嘘になるが、それが真実だと人々が信じていた時代があった。観測の積み重ねにより客観的な事実が解明され、真実とされていたものが嘘になる。だが、科学が嘘だと暴いても、それを信じない人々は存在する。そうした人々にとっては、信じたいものが真実であり、信じたくないものは嘘となる。

 自説の主張と嘘の境界も曖昧だ。例えば、「新型コロナウイルスは、ただの風邪だ」との主張があり、世界で100万人を超す多数の死者が出ているのだから、それは誤った主張だとされる。だが、世界で感染者は3700万人を超えるが大半の感染者は軽症ですむとされ、風邪と同様だと見る人がいても、見解の相違と主張されれば嘘と断じることは簡単ではなかろう。

 自説が事実に反すると自覚していない人は、嘘だと指摘されると戸惑うか反発する。事実を尊重する思考を誰もが常に行っているわけではないだろうし、自説に好都合な事実は尊重し、自説に不都合な事実なら無視することは政治的な議論などでは珍しいことではない。嘘も真実も主観で判断しがちな人なら、自説に反する事実が嘘に見え、その事実なるものは嘘だと言いたてることもあろう。
 
 嘘は、当人が意識してつく嘘と当人が意識せずにつく嘘に分けることもできる。当人が嘘と意識しているなら、事実など示して嘘を暴くことができよう。だが、意識せずに話される嘘は当人の勘違いや知識不足、思い込みなどによるものだろうが、事実を示しても当人は嘘をついているとの自覚が皆無であるなら、嘘だと理解させるためには説得しなければならなくなる。

 マーク・トウェインが生きていた時代に比べ、世界中で個人の情報発信が日常化し、各国政府は情報戦に励み、流通する情報量が格段に増加した。おそらく嘘も大嘘も大量に出回っている。いちいち真贋を確かめることもなく嘘も大嘘もそのまま世界で人々に消費されている可能性が高い。「世の中には3種類の嘘がある。それは嘘、大嘘、そして情報だ」が現代か。