望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

改正が意味するもの

 憲法の改正というと、改正の是非に問題が絞られるようだ。憲法を改正するか改正しないか、それだけが焦点となる。これはおそらく、「9条を守れ」との護憲派が、現行憲法にはいっさい手をつけさせないとの問題設定をしてきたので、それに影響されているのだろう。

 憲法の改正そのものに本来、価値判断は含まれていない。「憲法の改正=悪」とはいえず、改正の内容によって憲法の改正は、悪にも善にもなるだろう(悪や善の定義・判断は立場によって大きく異なる)。憲法の改正そのものが悪というのは政治的な主張の一つでしかない。

 1字1句変えてはならないと、憲法を神から託されたものであるかのように神聖視することは、憲法の機能を制限する。変化を続ける現実の中で人々は生きているのであり、国内外での大きな変化に対応できない憲法では、人々の暮らしに憲法を生かすことに制約が生じるだろう。

 現行憲法に変える個所はないとの主張が間違っているというのではない。国家権力が人々を抑圧しながら暴走した歴史を日本は持っているのだから、国家権力の独裁・暴走を許さず、民主主義体制を維持し、人々の権利を守ることが憲法には求められる。そうした面で現行憲法が機能していることは確かだ。

 おそらく護憲派は、国家権力の強化を目論む改憲の動きに対する危機感から、現行憲法の改正はいっさい許さないとの問題設定を行っているのだろう。それは、護憲派には、現行憲法をもっと理想的で現実的に機能する憲法に磨き上げる意思もプランも乏しいことを示す。

 もし護憲派が、もっと人々の権利や自由を尊重するために憲法を活用しようとしていたなら、憲法の改正をめぐる論議は、改憲派護憲派の双方が改正案を出して人々の支持を競うものになっただろう。劣勢になったなら改憲派は、国家権力に対する制約が強まるのを嫌い、現行憲法のほうがまだマシだと護憲に転じるかもしれない。

 憲法の改正の内容ではなく改正そのものが悪であると護憲派が仕立てるのは、もっと憲法を良くする改正案を持っていないことと、護憲派改憲派に押されていることを示す。護憲派憲法に対する幻想と硬直した姿勢は、自分たちで憲法をつくらなかった過去から生じている。