望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

突出した先見性

 坂口安吾歴史小説『信長』の中に次の言葉がある。

「人が最後の崖に立ったとき、他に助けを求め、奇蹟を求める時は、必ず滅びる時である。自分の全てをつくすことだけが奇蹟をも生みうるのだ。もしもそれを奇蹟とよびうるならば」

「ギリギリの時には奇策もずるさも有り得ない。奇蹟やずるさは平時の用意であって、いざ決戦の場に於ては平時の訓練を全的に投入する以外に奇策も奇蹟も待望し得ないのである。もしも待望する人は、それを待望するという至らなさによって敗れるだけのことである」

「溺れてワラをつかむ人は助からない。息の絶ゆるまで、手足の動く限り、陸に向って泳ぐことに投入することだけが助かる道だ。陸に人の姿を認めて救援をもとめる努力をするだけでも身を亡す原因になるだけだ。ギリギリの場は、いつもそういうものである」

 信長というと、若き日には、茶筌マゲに半裸の上半身、刀に縄を巻いた異様ないでたちで出歩き、父親の葬儀では抹香をつかんで、仏前に投げつけたなど奇矯な振る舞いで知られ、身内のはずの家臣団の中からも、タワケと見られていたことは広く知られている。

 後に天下を取ったから信長の振る舞いを現代では、世に入れられぬ“天才”の自由さとか、突出した先見性の表れとか解釈できようが、コトを為す以前に“天才”を見いだすのは容易ではない。その人物がなし遂げたことを知ってから、異才ぶりを納得するのは簡単だが、コトを成し遂げる以前には、異様さはただの異様さとしか多くの人の目には映らないだろう。

 突出した先見性とは、既存の通念、秩序、常識などにとらわれず、数年先や数十年先の時代にふさわしい合理性を想像したり直感できる能力である。例えば信長は、弓矢や刀より遥かに殺傷能力が高い鉄砲の導入により、戦場での戦闘スタイルや戦法が激変することにいち早く対応した。

 信長が生きたのは、親兄弟であっても時には殺し合い、家臣の裏切りも珍しくないという時代。武士の忠義が美化されたのは、現実には忠義が希薄だったからだ。そんな中で信長は父親の死後、親族、家臣をまとめることができず、気を緩めれば倒されるという状況が続き、尾張を平定することさえ簡単ではなかった様子が小説「信長」では描かれる。

 信長における合理主義とは、生き残ることを最優先させることだった。生き残るには、他よりも強くあるしかない。その強さとは、誰かが助けてくれると期待せず、自力で敵を倒すしかないと腹を決めること。強くあるためには、精神力や神仏の加護などよりも、さらに強力な武器を備え、新たな戦術、戦法で戦うことが現実的。何かに頼る気持ちが芽生えたなら、もう弱っていることの兆しなのだ……と信長なら考えただろう。