望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

マスコミと権力批判

 マスコミの使命は権力批判だとされ、権力に融和的なマスコミは時に御用マスコミなどと揶揄されたりする。権力の独裁や独走を防ぎ、不正な権力行使を監視し、腐敗があれば暴いて衆人の目に晒すことが民主主義を維持するために必要であり、その役割を果たすのがマスコミだとされる。

 権力批判は難しくはない。批判することが目的であれば、権力が何をしても批判できる。権力が右を向いても、左を向いても、上を見ても、下を見ても、前を向いても、後ろを向いても批判でき、何もしないことも批判できる。批判する根拠を曖昧にしておくことが、権力批判の自在さを支える。

 そこで問われるのが批判の根拠だ。権力を否定するために批判するというアナキズムに近い立場もある。だが、体制の中で活動する営利企業であるマスコミが、アナーキーな批判に徹することは困難だ。だから、民主主義などの理念を持ち出し、体制が「正しく」機能するような方向へ権力批判していると装う。

 マスコミの権力批判の根拠を分かりにくくさせているものに、他者の権力批判を記事として報じる手法がある。例えば、日本政府を批判する欧米や韓国などのメディアの記事を日本のメディアが伝える。記事という体裁なので、そこに日本のメディアの価値判断は含まないはずだが、そうした批判を選んで伝えることに何らかの意図が隠されていると勘ぐることも可能だ。

 欧米や韓国などのメディアの日本政府批判は様々な観点によるもので、共通しているのは日本政府を批判していることだけであり、それらの批判が「正しい」とは限らない。だが、日本政府を批判する記事なら何でも日本のマスコミは無批判に伝えるとも見える。

 批判に利害が絡んでいることは珍しくなく、自己を優位にするために他者を批判することも珍しくない。ある民主主義国の人民による権力批判と、その国の政府に対する外国からの批判が同等に評価されるものではないだろう。しかし、日本のマスコミは欧米や韓国などのメディアの日本政府批判を記事として垂れ流す。

 マスコミの使命は権力批判であり、権力は常に監視され批判されるべき対象だ。「建設的」批判が翼賛の偽装であることは珍しくないので、権力を甘やかすよりは厳しく批判したほうがいい。だが、権力批判であれば何でもいいと報じているように見えるマスコミは、その権力批判の妥当性を自ら損なっている。