望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

義が行動原理

  童話「桃太郎」のストーリーや人物設定などは地方によって様々な違いがあるそうだが、一般的なのは、桃から産まれた桃太郎が老夫婦に育てられ、成長してから鬼が島に行って、人々を苦しめる鬼を退治し、宝物を持ち帰るという筋書きだ。鬼退治には、犬、猿、キジに黍団子を与えて家来にして連れて行ったとされる。

 だが、犬、猿、キジを桃太郎の家来と位置づけたのは明治以降であるという。もともとの話では、動物たちは同志であったり、道連れであったりしたのだが、富国強兵を目指す時代の気分にふさわしいように、忠孝とか報恩などの価値観を奨励しつつ、忠義を捧げられるべき主役と、忠誠を尽くすべき脇役を明確化させたのかもしれない。

 犬、猿、キジが家来になったのではなく、桃太郎の同志であったなら、童話「桃太郎」の印象は変わってこよう。黍団子を貰ったから桃太郎に従うという話なら動物たちは目先の利益につられて動く存在でしかないが、「俺らも鬼には、ひどい目にあってるんだ」などという動機から、桃太郎の同志として動く話になると、動物たちの主体性が見えてくる。

 動物たちが同志になるには、敵は鬼であることを桃太郎と共有することが大前提だ。敵目標が一致するから、それまでバラバラに生きてきた桃太郎と動物たちが、連帯して共同戦線を構築することが可能になる。それ以前は、鬼に散々、ひどい目にあっていた人や動物たちが共同で対処しようとしなかったから、鬼は好き勝手に振る舞うことができた。彼らに欠けていたものは何か。

 桃太郎と動物たちが同志になって共同戦線を構築することを支えるものは、敵目標の一致に加え、精神的な結びつきだ。生死を共にした戦いで同志となるには、黍団子などの利益供与ではなく、互いの信頼感が不可欠となる。そうした精神的な結びつきを義という言葉で説くのが竹中労だ。

 竹中労は「〔義〕とは、人を呪縛するいっさいの公序良俗、国家権力に叛逆することである。〔すべて兄弟、貴賤を分たず〕という、血盟それ自体を指すのではない、まして無可有のユトピアの理想に殉ずることではない、いかなる報酬をも期待せず、ひたすら権力との闘争の過程に奮迅することによって、窮民の〔義〕は全うされるのである」(『水滸伝−−窮民革命のための序説』1973年刊。平岡正明との共著)とする。

 これは窮民革命を論じた文章なので竹中労は、権力への叛逆に重点を置いて義を説明したが、竹中労無党派自由連合を基本と考えたので、自由連合への個々の参加意識を支えるものを義と見たはずだ。人間関係に束縛されず、思想信条・主義主張にも束縛されず、共通の敵を倒すためだけに連合する……各自が持つ義が共鳴するときに共同戦線が構築されるなら、理想的な展開だろう。

 一般的な義の解釈は「行為が道徳・倫理にかなっていること」「よいとされる行為」などと幅広いが、竹中労はそこに個人の意思を加え、義は各自各人で形成するものと見なした。仁義や義理、正義、義務、意義など義を含む言葉は多いが、これらの言葉を現実に当てはめた実際の解釈では個人差が大きいから、どのような義を形成するかを各自は問われる。

 時代劇でお馴染みの「義によって助太刀いたす」の言葉を動物たちが発したかどうかは知らないが、桃太郎と動物たちは同志となって鬼を倒した後、動物たちは各自がそれぞれの生活に戻ったに違いない。参加も自由だし、離脱も自由で、共通の敵を倒すときだけに共同するのが義による自由連合だから。